日が落ちた頃から降り続いていた雨は、今は止んでいて、開け放した窓から風が雨で濡れた空気を部屋の中へ運んでくれている。幾分かの湿気を含んではいても、火照った身体には心地よくて、藤真はベッドに横になったままその風を受けていた。
タオルケットを肩まで掛けダブルベッドの端で小さく丸まって横になっている姿は、端からはどんな風に見えているのだろう。何かのさなぎにでも見えているものなんだろうか。
窓の向こうの空で時に風で流されてくる雨雲に隠されてしまう月を見ながら、藤真はそんな取り止めのないことをぼんやりと考えていた。
シャワーを浴びた後、カーテンを開けた時に窓ガラス越しに見えた月は、もっと輪郭の曖昧な柔らかな形をしていたように思えたのに、今、こうして見えているものは、空気が澄んでいるせいもあるだろけれど、とても鮮明な線で描かれている。それは、同じものなのに、ただ似ているだけの別のものを見ているような錯覚を藤真に起こさせる。
ふと、藤真の意識の中にひとりの顔が浮かんだ。
―――似てるのかもなぁ……
背が高いが故に無表情にしか見えなかった彼が、本当はいつも穏やかな笑みを絶やさずにいる事に気が付いた時、藤真はなにかしら暖かさのようなものに包まれるのを感じた。
最近は一緒にいる時間も増えてきたと言うのに、必要以上に藤真のテリトリーの中へは入ってこない。けれど、必ずそこに居てくれると信じさせてくれる雰囲気が花形にはある。藤真自身が他人を安易に受け入れない性格である事を、まるでずっと以前から知っていたように、ごく自然に、気が付けばいつも側に居る。
確信がある訳ではない。自分にとっての彼の存在は、本来はもっと不確かなもののはずだ。それなのに、いつの間にかそう思わせてくれている彼に、何故かもっと近づいてみたくなる。
藤真には、そんな自分が不思議でたまらない。自分の周りにあるものに特に興味を抱く事がなかったのに。執着するものはバスケット以外にはなかったのに。
―――花形…か…
その名前を呼んでみたくて、僅かに口を開いた時、寝室のドアの開く音がした。自分の後にシャワーを浴びていた男が入ってきたのだ。
男は藤真が丸くなって横になっている反対側に周り、静かにベッドに座った。ギシッと小さな音を立ててベッドが揺れる。
藤真は目を閉じて、軽く寝息をたてた。
男はそのままベッドにあがり、背中を向けている藤真の側までやってくると、その耳元に唇を寄せ囁くような声で問いかけてくる。
「藤真、もう寝たのか?」
微かに男の息が耳にかかる。
以前なら、その声を聞いただけで、ぞわりと震えるような快感が背中を走り抜けたものだけれど、今では、そういう事も殆どなくなった。気づかれもしないような小さな反応が生まれるだけで、それもすぐに消えていく。何も残さないほどに。
少し身じろぐとまだ濡れている髪が額を掠めるようにはらりと動いたが、起きている気配がないと感じ取ると男はそれ以上は声を掛けることはせずに、ベッドの空いているところにごろりと横になった。タオルケットを掛けるような衣擦れの音がして、暫くすると寝息が聞こえてきた。
藤真は、静かに目を開けた。
高校一年生のまだ残暑が厳しかった頃。ほんの好奇心だけで男との関係は始まった。
最初にどちらが言い出したのかは忘れてしまったが、面白半分にキスをしたのがきっかけだった。その時はキスだけだったけれど、程なくして練習試合で再会した時、とぢらにも人には言えない秘密を共有していると言う意識としがらみのない関係が重なり、それらに背中を押されるようにふたりの逢瀬は始まった。
この男に対しては、勝ちたい気持ちはいまでも確実にあるのに、欲しいと思ったことは一度もなかった。お互いに熱い時間さえ共有できれば良いだけの関係で、それ以上を求め合う事も心も必要なかった。
事が終わればさっさとシャワーを浴びて、最終電車で帰り、時折、そのまま男の部屋に泊まる事もあったが、それ以上は何もない、本当にさっぱりとしたものでしかなかった。
ふたりとも束縛する事もされる事も嫌っていたし、なにより、バスケット以外に執着するようなものを持ちたいと思わなかったのだ。
男に抱かれている間は、与えられる快感だけを追いかけていた。シーツの上に滴り落ちる汗が自分のものなのか誰のものなのかも判らない中で互いに若い精を迸らせあいながら、頭の中では、真っ白な世界だけを見ていた。
それが…。
いつ頃からだろうか。何も考えなくてよかった藤真の意識のなかに、ぽつぽつと変化が起こり始めたのは。
苦痛と快感の入り混じった行為の中で、必死で閉じていた瞼の裏にひとりの影が浮かんでは消え、また浮かんでは消えていくようになった。それが誰だか知りたくて重い瞼をあげたとき、そこには自分を抱いている男がいるだけ。そんな当たり前な判りきって居る事に、藤真は失望と不安に覆われていく自分をどうする事もできなかった。
それからは、男との行為の最中に目を開けることをしなくなった。キスを交わす事も目に見えて減っていき、その代わりなのだろうか、男は藤真の肌に自分の印を残す事に酷く拘るようになる。目立たないところにと気遣ってくれていた事を忘れてしまったかのように、白い肌の上にまる花びらを散らすように紅い痕を幾つもつけるようになった。
気が付かないではいられない。
身体の内側を知り尽くしている手で触れられれば、正直な反応を示すのに、藤真自身を包む空気も男との間も、だんだんとかたちを変えていっている。
少しづつ、少しづつ満たされないものが大きくなっていく自分の心。それと比例するように、男に抱かれていながら別の誰かを求めている事に、言いようのない嫌悪感に襲われてしまう自分。
熱い夏は、すぐ目の前に迫っている。
男との関係を終わりにしなければいけない頃に来ているのかもしれない。
藤真は瞬きを何度か繰り返した後、隣で寝ている男を起こしてしまわないように、そっとベッドから抜け出した。脱ぎ散らかしたままだった服を集め、素早く着替える。薄明かりの中で寝ている男の顔を一瞥した後、寝室から静かに出て行った。
時間を確かめようとして藤真は腕時計を探した。やっと学生スボンのポケットから取り出した時、手の平の上には腕時計と一緒にこの部屋の鍵もあった。男が、いつでも来れるようにと渡してくれたものだ。
―――鍵か…。どうやって返そうか…
少しの間考えを巡らせた後、スポーツバッグの中からくしゃくしゃになっているハンカチを取り出した。そうして、ローファーを履き、できるだけ音を立てないように玄関のドアを開けて外へ出る。
鍵を閉めた後、ハンカチに包み、ドアにある新聞受けから中へ放り込んだ。布に包まれているおかげで金属の反射音をさせなくてすんだ事にほっとする。
一言も言葉を交わさずに、鍵を返したことだけで男が自分とあっさり別れてくれるとは思わないが、これで一つの区切りだけはつけられたと思う。少しも心が痛まないかと言えば、それは嘘になる。関係を続ける中で、心は必要はなかったとは言っても、一番最初に面白半分にキスをした時、単なる興味だけでなく惹かれていた自分がいたことも認めない訳にはいかない。
こんな形で関係を絶とうとしている自分勝手な行動に、申し訳ない気持ちも確かにあるのだ。それなのに、その一方で、部活帰りの駅で用事があるからと言って別れた時の花形の顔を思い浮かべている。
もっと上手に感情をコントロールできれば良かったのだろうけれど、自分の不器用さを思い知らされたようで、藤真は苦笑するしかなかった。
藤真は口を小さく開け何かを言いかけたが、なにも言葉は出てこなかった。その代わり、ドアに少しの間手を当て、そうして男の部屋を後にした。
マンションの外に出たとき、両腕を上げて伸びを一つする。まだ少し悲鳴を上げる身体に顔を顰めるが、その表情に暗い部分は見当たらない。終電には、全力疾走でもすれば間に合うかもしれない。けれど、藤真は歩くほうを選んだ。
「さてと、これからどうすっかなぁ…」
呟きながら、夜の帳の中を藤真は歩き出した。
始発が出るまで駅で待とうか、それとも、一晩掛けてでも歩いて帰ろうか。それとも―――。
どこかで公衆電話をみかけたら、電話でもかけてみようか。こんな夜中では迷惑以外の何ものでもないと判っているが、花形の声が聞きたい。あの声で名前を呼ばれたい。こんな時間にかけてきて、どうしたのかと心配されたい。
―――ばかだ、オレも
どう考えても我侭でしかない思い付きに、嫌われるかもしれない、いや、花形ならそんな風にはならない。
二つの思いが交差するが、そのどちらでもないかもしれない。ひとつ言える事があるとすれば、自分は花形の事がきっと好きなのだ。その気持ちさえはっきりとしていれば、何も迷うことはない。先の事は誰にも判らないのだから。
見上げた夜空には、星が瞬き始めた中で柔らかな色合いをした月が浮かんでいた。