綺麗な弧を描きながら、手から離れたボールが跳んでいく。ゴールポストだけをめがけて。
――― 入れ…入ってくれ……
祈りにも似た思いは、けれど、聞き届けられることなく、ボールはゴールポストの周りをくるっと一回転すると、はいることなく、そのまま床へと落ちていく。
――― くそっ、あんなにも練習したのに、まだ足りないのか…。もっともっと、もっと、また練習して今度こそ…
手から離れたボールの行方だけをじっと見つめていた藤真には、その瞬間、周りの声援も味方の選手の声さえも、何も耳に届いてはいなかった。
不思議な時。何も聞こえない空間にいて、飛んでいくボールだけを見ていた。それなのに、揺れてくれなかったゴールポストの網。脳裏には、明日からの練習メニューが忙しなく組まれていく。
その時。
肩に手が置かれた。振り向くと花形が居て。彼の顔を見ようと見上げると、涙のない満足気な瞳で言葉が届けられる。
「よくやった、よくやったよ。でも、もう終わったよ」
一瞬、何を言われたのか判らなかったけれど、もう一度ゴールポストの方を向いた時、ようやく周りの音と言う音が聞こえてきた。
――― ああ、そうだった…。最後の試合だったんだ…
終わった。三年間走ってきて、試合に出られなくなって一年間。必死で走ってきた、追いかけてきた最後の選抜の試合に、負けて終わったのだ。
床に目を落とす。監督を受けてから4番をもらってから、初めてスターティングメンバーとして試合に出た。それなのに、結局は叶わなくて、海南に負けた。ずっと目標にして、海南に勝つことだけを目指して、寸暇も惜しんで練習をしてきたというのに。あんなにも願った勝利なのに、手には届いてはくれなかった。
けれど、不思議と涙はでなかった。
きっと、これが自分の持てるすべてあって、限界だったのだろう。悔いがないといえば嘘になるけれど。
背中をぽんと叩かれる。聞こえてくるのは、また花形の声。
「さ、みんなセンターラインのところに集まってる。藤真も…」
振り返って見れば、双方の選手たちがすでにセンターラインのところに集まっているのが見えて。牧もいる。腰に手を当てて、自分を待っているのだろうか。
一年の時初めて試合で対峙してから、いつしか牧に勝つ事が自分の目標になっていた。いつも完膚なくやられてばかりいて、一度でいいから負かしてやりたかったが、それも、もう終わった。
すべてが終わりを迎えたのだ。
視線を元の床に戻して、側にいる花形に応えた。
「判った、行くよ」
ちらっと花形をみやってから、センターラインの方へと歩き出す。一歩、一歩とみんなに近づいていく。と、同時に、床を踏みしめて歩いているはずの自分の身体が、まるで浮いているような不思議な感覚がして、つい足元をみてしまう。
だんだんとみんなの顔が近づいてくる。一志がいて高野も永野もいる。牧も神の顔もしっかりと見えているのに、どうしてこんな感じになってしまうのだろう。
ああ、きっと終わってしまうのが、これですべてが終わってしまうのが嫌なのだ。まだ何も決着をつけていないと、心が叫んでいるからだ。
――― 早く吹っ切れ…
視線を足元に落としながら、背中には花形の手を感じ、自分自身にそう言い続ける。
溜息が僅かに零れる。そんな小さな事も花形には気づかれたのか、背中を押す手に力が入ったのが判った。
いつも、ふたりして同じ方を見つめて、目指して頑張ってきたけれど、今にして思えば、花形は、前を向いているように見えて、いつだって自分を見てくれていた。
並んで歩いていたように思えていたものが、本当は少し後ろを歩きながら、自分の後姿を見ていてくれた。
隣を歩く花形を見上げると、自分の視線に気がついたのか、眼鏡の奥の瞳が微笑んでいる。
今、気がついた。
背中を押してくれている手と、大丈夫だと言ってくれる瞳と、みんなが居てくれたおかげで、自分は今までやってこれたのだと。
目指したものは一つだけれど、みんなで同じ一つのものを目指していた。
こんな当たり前のことを今更に気が付いて、心の中に広がる何かに満たされていく。
この気持ちは何なのだろうか。
溜息じゃなくて、深呼吸をした。今、この時のこの瞬間の空気を胸いっぱいに吸い込みたくて深呼吸をした。
センターラインに辿りつくと、みんなから無言の「お疲れさん」をたくさん貰う。
目を上げると、牧と視線がぶつかる。何も言わないライバルは、ふっと笑うと、手を差し出してきた。その手をとる。
大きな手。この手に何度も負かされてきた。悔いは残っているけれど、それ以上に満足感も湧いてくる。
「ずっと…、ありがとう…」
「ああ…」
交わされた言葉は少ないが、それで充分だと思った。これ以上は、もう何もないのだから。
手を離したとき、背中をまた押された。花形だ。花形の手も、また大きかった事を思い出す。頼もしい手だった。
その頼もしい手が、まだ浮いているような自分の身体を、まるで導いてくれているように押してくれる。時々、ぽんぽんと軽く叩いてもくれる。
「お疲れさま。すっと大変だったもんな。ほんとにお疲れさま…」
その言葉が、何故だかとても暖かく感じられて。不思議なもので。そんな風に感じた時、ふいに込み上げてくるものがあって。でも、今の今まで涙の一つも見せなかったのだ。こんなところで泣く訳にはいかない。ぐっと唇を噛み締める。
「………」
自分の返事を特に期待をしていなかったようで、花形は独り言のようにまた言ってくる。
「頑張ったなぁ。ほんとに、よく頑張ったよ」
やっぱり何も言えなくて。堪えるだけで精一杯だから。
コートサイドから通路を抜けて、控え室へと続く廊下へ出てきたとき、横に並んで歩いていた花形が、前を歩く一志に何かを言いに行った。
ぼんやりとその様子を見ていた時、戻ってきた花形に腕をとられて、突然、側にあったドアを開けて、中へと押し込まれる。
「な、なんだよ花形。みんなに遅れるじゃ…」
花形は後ろ手にドアを閉めると、両手を伸ばしてきて、まだ浮ついたままの身体を抱きしめてくれた。
「花形…?」
「良いから、もう我慢なんかしなくて良いから。思い切り泣けよ」
「何言って…」
「一志に後のこと頼んできたから。良いんだよ、もう、ほんとに我慢しなくて良いんだから…」
「花形…」
訳が判らずに、けれど花形の汗の匂いをすっと吸い込んだら、込み上げてきて必死で我慢していたものが、堰を切ったように溢れだしてきて、どうにもならなかった。
「あ…うっ…っ…」
花形の胸に顔を埋めていると、後から後から色々な思いが嗚咽になって溢れだしてくる。
「判ってるから、良いんだよ声出しても」
震えているのが判る声でそう言われ、両手を背中に回してシャツを鷲掴みにして、それからは声を上げて泣いた。
ただ、ひたすらに泣いた。
楽しい事ばかりじゃなかった。誰に言った事もないほどに辛いと思った事も、本当は数え切れないくらいにあった。
勝ちたかった。試合に出たかった。全国に行きたかった。みんなを連れて行ってやりたかった。残してきたものが大きすぎて、自分の手には余るほどに。それでも、自分自身の手でやり遂げたかった。
花形、お前は知ってくれているのか。みんなも知ってくれているのか。
たったひとりで、膝を抱えた夜もあったけれど、みんなは判ってくれていたのか。
「ひとりで背負わせて、ごめんな」
違う。そんな事を花形に言わせたい訳じゃない。すべて、自分で決めてきたことなのだから。謝って欲しいのではなくて、本当なら。本当に言いたい事は。
「ち…ちが…う…。あ…あやまらなきゃいけない…のは…オレのほう…だ…」
「…藤真…」
「いま…まで…ついてきて…くれて…あり…がとう…」
ありがとう。みんながいてくれたから。花形がいてくれたから。
泣いて、一言だけをやっと言えただけで、後も泣き続けて。花形は、その間もずっと抱きしめていてくれた。
ありがとう。
このチームでやれて、よかった。本当だよ。
ありがとう…。
終