not made to language[5]



「藤真、違う鍵だよ、それは」
 部室の鍵をドアの鍵穴に差し込もうとしている藤真の手に自分の手を置いて、花形は、まだどこか上の空でいる藤真に努めて穏やかに声をかけてやった。
「え…?」
 どうしてと言うような目で花形を見上げてきた藤真は、何かを思い出すように、花形と手に持っている鍵とを交互に見ていたが、ようやく、今の状況が理解できたようで、
「…ああ、そうか、帰ってたんだ…」
 花形をもう一度見上げ、
「おまえ、ここまで着いて来てくれたんだ。あ…」
「まね、それもあるけど…ほら…」
 何か言いかけた藤真に、自分の腕を掴んだまま、ずっと離さないでいた事を教えると、慌ててその腕を離し、うな垂れるように視線を足元へと落とす。
「ごめん、オレ、また花形に甘えたんだな」

 少しうつむいている背に西日を受けている事もあって、藤真の顔が良く見えない。そのせいか、いつになく小さく見えてしまう脆さを感じる肩に花形は抱きしめてしまいたい衝動に駆られるが、どうにかその衝動をやり過ごし、変わりに背中をぽんと軽く叩いてやった。
「気にすんな。オレも、今日はうちには帰りたくなかったからさ」
 その言葉に、また見上げてくる藤真にしては情けない顔に向かって、ニッと笑いかけ、
「他の奴等の前ではそんな顔するなよ。オレの前でだけな」
「そんな事…、判ってるよ」
「じゃ、そろそろ部屋の中に入れてくれる?」
 うんと小さく笑ってうなずいた後、藤真はようやくマンションの部屋の鍵を開けた。


 二人そろって中へ入ると、まだ真夏の暑さではないにもかかわらず、部屋の中はむっとするほどの熱気に包まれていて、藤真は急いでエアコンのスイッチを入れた。程なくして冷気が二人を包む。
「先にシャワー使えば? その間に何か飲む物、用意しとくよ」
 そうさせてもらうよと、花形は勝手知ったるなんとやらで、さっさと洗面所のほうへと消えていった。

 その後姿が見えなくなるのを待っていたかのように、藤真は大きな溜息をついた。他のレギュラーや部員達と一緒の時はまだ普通にしていられた。けれど、皆と別れやがて花形と二人きりになる頃には何をするにも、何かを考えるのも億劫になってしまっていた。頭の後ろの方からゆっくりと着いて来るような感じだ。今は、必要以上には何も言わない花形が一人側にいてくれていて良かったと思っている。一人でいるときっと身体は動かない。花形ならその背中をゆっくりと押してくれるはずだ。
 藤真はまた大きな溜息をついた。

―――そうだ、何か冷たいお茶でも用意しなきゃ…

ゆるゆると動き始め、冷蔵庫から作り置きの麦茶をだしてきて、二つ用意したガラスコップに注いだ。
 今になって喉の渇きを思い出した藤真は、コップを取り上げ一気に飲み干す。冷たい液体が身体の中を一直線に落ちていく。ぼやけていた意識が少しはっきりとしてきた。もう一杯飲むと、また少しはっきりしてくる。はっきりしてくると同時に今日のことが少しづつ藤真の中で思い出され、目を閉じるとより鮮明に記憶が蘇ってくる。
 予選から勝ち上がってきた湘北に、シード校の翔陽は負けた。その瞬間に、翔陽の夏は終わってしまった。
 負けた。負けたのだ。その言葉が藤真の中をぐるぐると渦巻いている。必死で戦った。けれど、どんなに良い試合であっても、負けてしまっては何にもならない。最後の夏だったのに。
 ふぅと溜息をついて目を開け、手に持ったままの空っぽのコップに視線を落とす。今日起きた事を、この小さなコップの中に閉じこめる事ができたら良いのに。後悔や反省も全て一緒に閉じ込める事ができたら…。

「はふぅ〜、暑いなぁ。お先にありがとな。お、冷たいヤツ貰おうか…」
 シャワーを浴びてきた花形のその声に弾かれたように顔を上げて、声の主をじっと見つめる。
 右手には何時ものとは違う眼鏡を持ち、左手に持ったバスタオルで顔の汗を拭っている。首もとの汗を拭い終えるとテーブルに置いてあるガラスコップに手を伸ばしてくる。藤真と同じように一気に冷たいお茶を飲み干す。そんな花形を藤真は声を掛けることも忘れたかのようにじっと見つめたままでいる。花形は藤真の視線には気がついているのだが、喉を潤す方を優先させている。
 お互いに何も言葉を交わさないままの短いような長いような時間が過ぎた後、ようやく花形は藤真の顔をしっかりと見た。
 藤真の眼差しに、―――目は口ほどに物を言うって、本当だな…―――と思った。

「なぁ、藤真…」
「…ん?」
 じっと見つめてくる視線を柔らかく包むように捉えて、
「まだ、何もかもが終わった訳じゃない。冬がある。俺達レギュラーは残る。もう皆で決めたんだ。夏は終わったけれど、チームをもう一回立て直して、またがんばろ。な…」
 花形の声を静かに聞いていた藤真は、思わず瞬きを繰り返した。と同時に、身体の中で強張って固まりかけていたものが粉々に砕け散って、余分な力が抜けていき何か新しいものが生まれてきているのを感じた。
「冬…、そうだ、冬がまだあったんだ」
「そうだ」
 一度視線をおとして、また花形を見つめなおす。その瞳は先ほどまでの無機質だった色が消え、目的を持ったいつもの瞳の色に戻っていた。
「ようやく落ち着いたみたいだな。色んなこと清算するのは、一番最後にしような」
「なんだよ、それ。でも…ありがと花形」
「どういたしまして。それより、もう一杯、お茶くれる?」
 笑顔の戻った藤真は、花形のコップにお茶を注ぎながら気になっていた事を聞いた。
「レギュラーが皆残るって、何時決めたんだよ? 俺は聞いてなかったぞ」
「うん、藤真のいない時に皆に確認取ったんだよ。冬まで残れるかって。そしたら、皆そのつもりだったって言ってたの」
「そっか。そうなんだ。じゃあ、また、明日からだな」
「また、藤真にしごかれるんだよな、俺達…」
明日からの事を思い、お互いに顔を見合って笑みがこぼれる。
「だから、今日は、今日くらいはゆっくり休もう」
「判った」
 また、顔を見合ってはお互いに笑ってしまう。
 目の端に涙を浮かべてしまうまで笑いあいながら、藤真は、

―――自分は一人じゃなかった。頼れる仲間がいる。大切な仲間たちだ…

 心からそう思うのだった。