不器用な魚たち-1-



何もかもが夢のようで 信じられないような感覚
きっと恋する気持ちって そんなもの
手に負えなくて厄介で でも とても愛しいもの




「だからっ、そういう風には言わないで下さいって、いつも言ってるじゃないですかっ」
 勢いよくカウンターに両手を着き立ち上がったイルカは、声を荒げて言った。
「イル、カ、先生?」
 怒りを向けられたカカシはと言うと、少し目を瞠った後は見つめることしかできないでいた。


 イルカとカカシが、ふたりで酒を飲み交わすようになってからよく通うようになったその店の中は、そこそこに客が居て、静かとは言えない程度の喧騒の中でイルカの声が聞こえたものだから、その時は静かになった。けれど、次の瞬間にはまた元の喧騒に戻っている。高級とは違う店では、酒を嗜むと言うよりは、騒ぎながら楽しく飲む客が多いからだ。
 一度は好奇の目に晒されたイルカでも、今はもう皆からの興味も失せている。それでも、声を荒げてしまったことを失態とでも思っているのか、イルカは酔いとは別の意味で顔を赤らめた。拳を握り、唇を噛み締めて。
 カカシは、そんなイルカに声を掛けようかどうしよか迷った。声を掛けさせないような雰囲気がイルカからは発せられているし、しかも、イルカが声を荒げてしまうような事が、ここ最近多くなってきているように思えるから、余計に声を掛け難くさせた。中でも、今日は特に怒りを露にしている。
 そんなに気に障ることを自分は言ったのだろうか? いや、多分に言ってしまったのだろう。自覚はないけれど。自分のどの言葉が怒りに火をつけたのか。それとも、イルカの中にはずっと燻り続けていたものがあって、ほんの少しの火だけで怒ってしまったものなのか。


――― まずいな…


 心の中でそうごちた後、それでも何か声をかけようと、肩へ手を伸ばし口を開こうとしたが、その手をまるで振り払うかのように身体を震わせたイルカに、結局は何も出来なかった。
 カカシとイルカの間に、気まずいものが漂い始める。


 ややあって、
「俺…、今夜は帰ります。すいません」
 そう言って、カカシの方を見ようともせずに、イルカは店から出て行ってしまった。
 一人残されたカカシは、ひとつ溜息を零すと、お猪口に残されていた酒をぐっと飲み干した。
 つまみをひとつ口の中へ放り込んで、今夜のイルカの怒りの原因となったものの事を考える。
 何がいけなかったのか。
 いつもの様に一日の労をお互いに労いあい、ビールをまずは飲んだ。程よく喉が潤せた後は、日本酒に切り替えて、今日あった事をぽつりぽつりと肴にしながら、ゆっくりと飲んでいた。
 そんな時だ。ここのところイルカがよく口にする『強くなりたい』と言う言葉を今日も聞かされた。イルカらしく、それはとても控えめにカカシへと伝えられた。
 真摯な態度で、何事にも一生懸命に取り組む人。同僚達からの頼まれ事にも嫌な顔一つせずに引き受けては残業をしてしまうと言う、カカシから見れば不器用とも思える部分も、イルカの人となりをよく表していると思う。だから、自分は素直に心に浮かんだ言葉を言ったのだ。


「イルカ先生は可愛いね」


 男に対して言う言葉ではないかもしれない。けれど、イルカは自分の想い人であり、公に人に対して言ってはいないが恋人同士でもあるのだ。真面目な彼が、きっと心に秘めた思いがあって言ったのだろうと思うと、それだけで愛しくなって、自分は可愛いと思い、それが言葉になって伝えられたのだ。
 けれど、イルカには掛けてはいけない言葉だったのかもしれない。真面目さゆえに一本気なところがあるから、受け入れられないものに対しては、どうしても頑なになってしまうのだろう。


 ふと。そう言えば、思い当たる事がある。
 二人の間で交わされる睦言のなかで、可愛いと言うと、イルカは酷く嫌がる。恥ずかしがっているものとばかり、そうずっと思ってきたけれど、本当のところは違っているのかもしれない。
「じゃあ、なんて言えばいいのさ…」
 思いが声になって、口をついてでてくる。
 俺たちは恋人同士じゃないの? 友達ごっこしてるんじゃないよね…。
 イルカのすべてが愛しいと思えるからこそ、睦合い、愛し合っている仲の筈なのに。その言葉の何処がいけないと言うのだろう。


 空になっているお猪口に酒を注ぎ、くっと飲み干す。
 イルカは今頃、どうしているだろうか。何を思っているだろうか。
 あんな風に怒って、一人帰っていっても、きっと酔いが醒めれば後悔をするだろう。声を荒げ、カカシを一人でほったらかして帰ってしまったのだから。また一人で思い悩んで、眠れぬ夜を過ごすかもしれない。
 そんな風にさせたい訳ではなかったのに、結局はイルカを苦しめる結果になってしまう。
 もやもやとした思いが込み上げてきて、どれだけ酒を飲んでも、酔いとは程遠いところに置かれているようだった。


 これ以上この店に一人でいても仕方がないので、早々に勘定をすませて、店をでた。
 夜風は、ひと頃の冷たさが消え、程よく心地良い涼しさを運んでくる。桜の満開の時期は過ぎ、今は葉桜となり、緑を色濃くさせている。咽かえるほどに緑が濃くなるのはもう直ぐの事だろう。
 イルカと花見を楽しんだのが、まるで遠い日の出来事のように思えて、知らずに溜息が口をついてでてくる。こんな気持ちのままでは真っ直ぐに自分の家に帰る気にもなれず、足は自然とイルカの家へと向かっていった。


 酔いも醒めた頃、ようやくイルカの家が見えるところまできた。
 窓を見れば明かりが点いている。まだ寝ないで起きているのか。風呂にでも入って、少しは落ち着いてくれていれば良いけれど。あまり悩まずに、それでも、自分の事を気にして欲しい気持ちもなくはなく。
 相反する思いに、苦笑いが浮かぶ。
 夜空を見上げて、溜息をひとつつく。
 明日になれば、また何事もなかったように話をすれば良い。イルカの方から、多分に詫びを言ってくるだろうけれど、自分はそれに笑顔で返してやればいいだけだ。詰める様な事はせずに、イルカが何に思い悩んでいるか、自分から話してくれるまで待てば良い。ゆっくりゆっくりと、本当に根気よく二人の想いを育んできたのだ。つまらない焦りでそれを壊したくない。


「おやすみなさい、イルカ先生…」


 カカシの声は夜の帳の中に、静かに溶け込んでいった。