不器用な魚たち-2-



 桜の花が満開の頃に終わりを告げて、その花びらを散らし始めたある夕暮れの事。
 夕焼けの茜色に染まる風の中で、薄く仄かな色をした花びらの散りいくのを、首を傾げてじっと見つめている人が居た。
 アカデミーの校庭の端にあるその場所は、枝振りが大きくて影が程よくあったりして気持ちが良く、自分もその根元に座り込んで休む事が多かった。座って見上げては、花の咲く頃を楽しみにしていた事もあったから、だから気が付いた。
 一年のほんの一週間足らずの花の時期を惜しむかのように散る様が見事で、少し遠目から見る自分も見惚れては、同じように見入ってしまっていた。
 暫くした後、何気なく振り向いたその人が、こちらの存在に気づいて頭を少し下げて挨拶をしてきた事に、階級を傘に着ない人なのだと、噂などよりもずっと気さくな人なのかもしれないと、そう思えたことが嬉しかった。初めての挨拶の時、手を差し出しても言葉の欠片さえ発しなかった人だから、覚えていてもくれないだろうと、そんな思いもあったけれど、遠くからでも頭を下げてこちらに意識を向けてくれた事が、本当に嬉しかった。

 春が終わり、その後、受付所で何度か言葉を交わす事があっても、それ以上の関係には進まなかったのに、夏が過ぎて秋が訪れる頃になって、ようやく、ゆっくりと話をするようになった。
 彼にとっては、上忍師であったのに子供たちが離れていったことで解任され、自分にとっては、目をかけていた子供が里から離れて行った事で、何かしらの寂しさを感じていたからかもしれない。
 他愛ない話題で笑いあい、酒を飲んで酔いつぶれてはどちらかの家で過ごして酔いを醒まして。そんな小さな関わりを重ねていっていたある夜に、寒さのせいもあったろう。独り身の寂しさもあったろう。その冬の一番冷え込んだ夜だった。初めて肌を重ねた。
 人肌の温もりは、ずっと独りきりだった自分に、言い知れぬほどの安堵感を与えてくれた。それは彼も同じだったと、後になって聞かされた。
 冬将軍の到来で、底冷えのする毎日の中、ふたりそっと寄り添って、静かな時を重ねていった。共に忍だから、明日をも知れぬ命だと判っていても生き急ぐような真似はせず、それでもふたりでいられる事に感謝しながら、初めて出会った春の頃を待ちわびていた。

 

     *  *  *

 

 カカシを店に置いたままにして家に帰ってきたイルカは、走って帰る途中でいくらかは醒めていた興奮を尚も静めるために、急いで風呂に入った。
 熱めのお湯を頭から被り、全身を洗い流す。酔いも何処から来るか判っている怒りも一緒に洗い流す。
 ようやく落ち着いた頃に風呂から出て、身体を拭きながら溜息をつく。
 頭が冷えてくると、カカシへのすまない気持ちが湧き上がってきて、どうしようもなくなってくる。こんな時だ。いつも、こんな時に思い出す。初めて会った頃の事とか、一緒に過ごしてきたこの一年の間の事を。

 カカシに対する想いが、友人に見せるような親しさから異性へ抱くような淡い想いへと変わっていったのはいつごろの事か。
 お互いに、身の内に抱える独りきりの寂しさがあった。心のどこかでは、いつも欲して止まないものがあったのだと、認めるには癪だけれど仕方がない。カカシも、それは同じだったはず。
 そっと寄り添って、触れ合って、温かいものを感じあい、そうしている内にいつかふたりとも離れられない存在になっていった。
 カカシと一緒に過ごす時間はとても穏やかで好きだと言えるのに、それなのに、もう一方では、それと同時に湧き上がってくる別の想いが存在するのだ。
 カカシとの時間が長くなればなるほど、一緒に居れば居るほどにその別の想いは自分を苦しめてくる。

 任務から任務に明け暮れていた日々から里へ常駐する上忍師の任務に就いたカカシは、解任された後も、未だ戦忍を辞めないでいる。里がカカシほどの忍をのんびりさせておくはずもないのは理解できるが、里にいる事に慣れてそのまま内勤にでも他の忍びならなる事が多いと言うのに。本当に芯から強い人なのだと思う。それでなくても肩書きは一流なのだ。
 特に何かの噂を耳にしたとかじゃない。カカシと一緒に居ることが多いと、同僚達からからかわれる事はあっても、それ以上の事を聞いたわけじゃない。
 だから、自分ひとりだけで思う事なのだ。カカシの隣に居る為に、一緒にいても遜色がないくらいに強くなりたいと。せめて、同じ男として、側に居ても笑われないくらいに強くなりたいと。

 

 髪から滴り落ちる雫を手の平で受けて、そっと握り締める。
 カカシは、今夜の自分をどう思っただろうか。カカシにとっては何気ない言葉に違いないと思うのに、そう思うのに、どうしても受け入れられないものが自分の中にあって、カカシの言葉を拒絶してしまう。

 

『可愛いね…』

 強くなりたいと思う今は、そんな風に、カカシにだけは言われたくない。
 ふたりの関係が、男女のそれと何ら変わらないものであるはずなのだから、そこまで頑なになる必要もないと、カカシなら言うかもしれない。いや、きっと、そう思っているはず。
 思うほどに自分に実力が付いたようにも感じる事ができずに、ここ最近、カカシの言葉に、ついいらいらとしてしまって、いらないひと言を言ってしまっては当たってしまう。カカシには、自分を苛立たせようと思っている訳ではないと、頭では判っているのに、どうしようもなくて。

 

 まだ濡れそぼっている髪を拭きながらベッドに腰掛ける。そうして、知らず知らずのうちに爪を噛んでいる。ふと気が付いて、爪を見ては、また後悔してしまう
 明日の朝、カカシに会ったら何と言おう。昨夜の事はすいませんと、いつものように詫びれば良いのだろうか。それとも、何もなかったかのように笑顔で普通に挨拶をすれば良いのだろうか。
 前の時は、今日みたいに声を荒げてしまった後はどうした?
 あの時は、カカシが目尻に皺がよるほどに笑顔を見せて、話題を摩り替えたのではなかったか。自分に落ち込ませないようにと、気遣ってくれていなかったか。
 カカシは優しい。その優しさが、強さと表裏一体のところにあるように思えて、どうしても素直になりきれない部分がある。
 その一方で、カカシのようになりたい、あんな風に強くなりたいと切に願っている。
 カカシから与えられる独りきりでないと感じる安心感や、それと気づかせないように振舞える気遣いさがあれば、自分にもっと自信がもてるだろうに。

 天井を見上げて、零れそうになる雫を消したい。こんなにも女々しい男だったなんて。
 人を好きになると、もっと楽しい日々が送れると思っていたのに。どうしてこんなにも落ち込んでしまうのだろう。最初の頃は楽しい事ばかりだったのに。
 こんな夜は、もう何をする気も起こらない。持ち帰りの仕事があったとしても、きっとやれていない。自分でも時として嫌になるほど、頭に馬鹿がつくほどに生真面目なところがあったと言うのに。

――― 変わったな俺も…

 まだ乾ききっていない髪に手拭を巻いただけで横になり、上掛を肩まで寄せて目を閉じる。
 カカシの夢が見たいのかそうでないのかさえ、今夜は判らない。ただ一つ、笑っている顔を見るのは辛いと思う事だけ。
 ああ、そうか。自分はカカシから無条件に優しくされるのが嫌なのだ。
 こんなに深い関わりを持たなければ知る事も見ることもなかった自分自身の暗い部分があって。見たくなくて目を逸らしても、どこまでも付きまとってくる暗い闇の心で、きっと自分は強いカカシを妬む気持ちがあるのだろう。だから、そんな気持ちの裏返しに、優しくされるのが嫌なのだと思う。
 嫌だ、こんな自分。
 ごろりと横を向いて、壁を見つめる。溜息をひとつつく。


 心の中を渦巻く今はまだ小さな波は、イルカを健やかに寝かせてはくれないのだった。