プラネタリウム -1-



「ふん、藤真らしいと言うか何というか…」
「藤真さんにそう言ってもらえると嬉しいかも」
「俺は正直嬉しかったよ。いい相手ができたからな。仙道、早く上がって来い」
「牧さん、本気ですか。今度は勝ちますよ」
「あのな、お前はまだ俺には勝てん」
 にやりと笑う牧に、仙道はクスクス笑っている。
「言ってろ二人で。…ったく…」
 ソファーに深く座ったままで仙道にも牧にも向かってむっとした顔をしてみせる藤真は、けれど不愉快な気持ちはなかった。
 藤真がまだ二年のとき、国体の神奈川代表として高校生として他に牧と仙道も選ばれていた。合宿では三人で同室になり、その頃から、他の部のみんなの知らないところで、牧や仙道と藤真は集まってはバスケ談義に明け暮れる時間を共有していた。

「俺、明日が卒業式だよ。牧んとこは?」
「俺のところは来週だ」
「ふふ、俺の方が先に高校生にオサラバできるんだな」
「言ってろ」
 牧はそう言うと持っていたコップにまだ残っていたビールを飲み干した。
 まだ未成年であるが、三人で集まるときにはビールくらいはと牧が用意しているのだ。
「陵南も明日ですよ。翔陽とおんなじですね」
「仙道は先輩の卒業式だもんな。出るんだろ?」
 ちょっと肩をすぼめた仙道は、彼らしい笑みで、
「はい。でも…多分、遅刻です」
「らしいよな。なぁ、牧」
「…仙道、お前キャプテンなんだから、少しは…」
「はいはい判りました、牧さん」
 胡坐をかいた足の間でコップを弄びながら、少しばかり嬉しそうな声音が続く。
「でも、牧さんて心配性なのかなんなのか、前より口煩くなりましたよね。思いません、藤真さん」
「こいつな、見た目もそうだけど爺くさいから煩いの。しかも、昔っから」
 さも楽しそうに笑う藤真の目元は、ほんのり紅い。
 アルコールには強くないらしくすぐに紅くなる自分をよく愚痴っていたことも、今では懐かしいのか、それとも心地良い酔い加減なのか今夜の藤真は牧をからかってばかりいる。
 ふん、と言う牧にしてもそれは同じとみえ、藤真を見つめる眼差しには温かいものがあった。
 

――― あ…れ…なんか…違うよな…


 根拠はない。けれど、仙道はほんの僅かな違和感を逃さなかった。
 後輩らしい笑みを湛えながら、彼の―――バスケに身を置くようになってからといおう―――独特の感性が嗅ぎわけるのである。
 牧の視線に含まれるあの温もりの意味するところは。

――― たぶん……かなぁ…

 ただ、受ける藤真には、まったくその気がないのが手に取るようにわかるから、仙道は手元のコップに視線を落として苦笑してしまう。
 人の気持ちは、案外に残酷なものである。故に、切ない。なまじ経験があるものだから、余計に切なくなってくる。

「あ、俺もう帰らなきゃ。時間だ」
「…まだ早いんじゃ…」
 牧が掛け時計を見上げながら、もう少しと言い掛けた言葉を遮り、
「俺、駅で待ち合わせしてんの。塾帰りとちょうどあうんだよ、花形とさ」
「そか…」

 牧の瞳が、こっそり見ていなければ見逃していただろうほんの一瞬だけ曇ったのがわかった。
 仙道は、コップにまだ残るビールを飲み干した。

「じゃ、帰り一人にならなくてよかったですね。襲われでもしたら、ねぇ、牧さん?」
「誰が襲うんだよ、男を」
 呆れたように笑いながら藤真は帰り支度を始める。
 三人でいる楽しさをもう少し共有したいはずなのに、牧は手でコップを弄びながら見ているだけで、何も言うつもりはないらしい。藤真がコートに腕を通しているのを見ているだけだ。
 その反応があまりに素直すぎるのが、仙道には不思議で仕方がなかった。
 牧という人は、あの神奈川に牧ありと言わしめたほどの牧が、成す術もなくと言ったほうがあうほどに、ただ見ているだけなのである。

――― なんだかなぁ…ほっとけないというか…

「牧さん」
「ん?」
「酔いざまし兼ねて、駅まで藤真さんを送っていきませんか?」
「はぁ?」
「そんな、鳩が豆鉄砲くらったような顔しなくてもいいのに。さあさあ、早く牧さんもコートかなんか着てください」
「おい、仙道…」
「いいからいいから、はいこれきて」
 手近にあったブルゾンを牧に投げてわたし、仙道は足元にあった半纏を羽織った。
「これ、借りますよ牧さん」
「おお…」

 すでに玄関先でローファを履きかけていた藤真は、振り向いて、
「いいのにさ、悪いじゃん」
「だめですよ、何かあったら花形さんになんて言い訳すればいいんですか? そんなのごめんですからね。それに、外の空気も吸いたいし」
「へんなの、仙道…」
 ニッと笑う仙道と、その後ろにいる牧に、
「今夜はごちそうさん」
「はいはい、じゃ、いきましょ、駅までですけど」
 面白いやつと、藤真は笑いながら玄関を先に出る。二人が後に続く。


「さっぶ〜」
「仙道、おまえ、外の空気吸いたかったんじゃ?」
「いや、そうですけど、家の中はあったかっかったですねぇ。ねぇ、牧さん?」
「そうか? 俺には気持ちいいさ」

 誰ともなしに夜空を見上げれば、今夜は見事な満月だったことを知る。
 足元がそんなに暗いとは思わなかったのは、月が殊のほか明るかったからなのか。
「いいもんだな、満月も…」
「そうですか?」
 見上げて言う牧のその後を追うように仙道も見上げ、視線をゆっくり落とす時も、また、その後を追うように視線を落とし。仙道は、そうして牧の心の内を感じてみようと思った。
 その存在を初めて目に焼き付けてからもう二年になる。親しく言葉も交わせる仲にはなっていても、あくまでも海南の牧としてだけだ。まだ知らない牧のもう一つの顔はどんなものなのだろう。
 だんだんと。急速に牧に興味が湧いてくる。心を何かに喩えるなら、坂道を転がり始めたまるで石のように、それは速度を増していくしかない。何処に行きつくかも分からない。
 ただ、確かなことは、膨れ上がっていくそれは、喩えようもないほどに仙道を虜にしてしまったということだけだ。
 ひたすらに追いかけるしかなかった。手に届くかもと思われた時、彼はするりと仙道をかわし、また先を歩き始めた。同じ土俵に立てるのは一年先。伸ばした手は、それまでの間は宙を彷徨うだけしかない。
 そんな牧だったから、知らなかったもう一つの顔に惹かれるのは仕方がないと思う。
 仙道は、歩く道のその向こうをみるように、一つ大きな息をはいた。


 もう10分くらい来たろうか。向こうに駅の明かりが見えてきた。
 軽やかだった三人の口が静かになった。二人より半歩ほど前を行く藤真が駅のあたりに何かを探しているのが判り、牧がしゃべるのをやめたのだ。
 牧の表情を視線だけで追う。
 静かに静かに穏やかに瞳は藤真を見ている。なにか言いた気であるのに言えず、胸の奥でとどめている風が手に取るように判る。

――― そか…

 牧は恋をしている。多分、もうずいぶん長い間であろう。穏やかに、熱くなることを控えているそれは、酷く切なく仙道の胸の奥に伝わってくる。

――― まいったな…ほんと、まいったな…



「あっ、いた」
 藤真の声に現実に戻されたような感覚を覚え、その声の先をみた。
 牧をちらとみると、思った通り視線を下げている。判りやすいなと思う。しらず笑みが浮かぶ。
「じゃ、今夜はありがと。またな」
 振り返りながら告げる藤真は、一刻も早く改札口で待つ男の元へと急いでいる。その背中をようやく目にした牧は、まるで遠くを見つめているような瞳をしていた。
 駅の改札口に灯る明かりの下で、笑いあう二人が見える。藤真の荷物に手を差し出して受け取る花形は、まるで二人でいるのが自然であるかのような空気を醸し出していた。あんな二人の間に、牧が入れる余地などないようにみえる。それでもなお見つめている牧の心の中は、どんなだろう。


 大人の顔いろを窺うことには長けていた。いつだって周りから浮いていたから。
 ほしいものをほしいと言えず何もできずにいたことも、今では懐かしい。
 仙道は思う。
 追いつくのはまだ先だけれど、手に入れることはできるかもしれない。そう遠くないころに。この、騒ぐ胸の内がじっとはしてくれるはずもない。
 仙道は夜空を見上げた。それから、

「牧さん…」
 自然に口にできた。
「ん?」
「そんな目で見つめていたら判っちゃいますよ。いいんですか?」
「…お前…」
 牧は仙道と目を合わせると、ふっと笑ったような顔で足元に視線を落とした。切ない気持を閉じ込めて、それでもなお焦がれれてしまう。
 まるでふっきるように少し頭を振って牧は、
「仙道、お前、今夜はいいんだろ?」
「時間ですか?大丈夫ですよ」
「よし、今夜は俺に付き合え」
「はいはい」
「いいな、俺の話し相手になれ」
「はいはい…」

 藤真と花形が改札口の向こうに消えるのを見届けて、二人は元来た道を歩き出した。
 牧がひとつ、大きなため息をついた。

 仙道は帰り道、なにも言わなかった。静かに隣を歩き、彼を纏ういつものものとは違う空気を感じていた。
 あきらめることは本当はとても辛いものであることを、仙道は知っていたから。