プラネタリウム -3-



 海岸前の駅のホームには人はまばらにしかいない。
 古い木の長椅子に深く腰をかけて、仙道は幾分温かみを含み始めた風を感じていた。時折深呼吸をしてみると、ふわりと胸の奥におさまる何か。
 心地良さを与えてくれるそれがどういったものなのか、いまはまだはっきりと形を成さないでいるが、そんなもどかしさも悪くないと思う。
 はっきりとした形になるのは何時だろう。この手の中におさまったときだろうか。

――― …何を? 

 右手を広げ、親指人差し指と一本づつ閉じて。また広げて手を見つめる。汗ばむ掌の中に何をおさめた時に形を成しえるのだろう。

――― 俺は…

「欲しいもの…か…」
 つぶやいた時、電車がゆっくりとホームへと滑りこんできた。
 顔をあげ、開いた幾つかのドアに探すように視線をむけると、ドアの閉まる間際に牧が下りてくるのが見えた。頬の緩むのが自分でも判るのがおかしいと思うほどに、見つけた瞬間つんと胸の奥に感じるものがあった。

――― やばいよなぁ…

「牧さんっ」
 単線の小さな駅のホームである。声をかけなくても牧には仙道をみつけられる。判ってはいても、その名を口に乗せ声を出して呼んでみたくなる。
 名前を。牧が、そうして声に気がついてどんな表情を見せるのか知りたかった。
 顔を少し上げ口元を綻ばせるのが見えた。
 切ないほどに温かいものが込み上げてくる。
 この瞬間を忘れない。きっと、ずっと覚えている。

「待ったか?」
「少しだけね」
 いたずらっぽく笑いながら、指で少しだけと示してみる。
 牧に顎で促されて、仕方なくたちあがり、
「これから何処に行く?」
「いいところにです。黙って俺についてきて下さい」
「わかったよ」

 二人は改札口をでると、並んで海岸通りを歩き始めた。
「牧さん、向こうに見える信号を左です。坂道になりますよ、大丈夫ですか?」
「あのな仙道…」
「牧さんは来週卒業だから、もう練習なんてしてないだろうし、体鈍ってたらどうしよう…てっ!」
 仙道は、はたかれた頭を押さえて、
「暴力反対…あっ、また…」
「お前がつまらんこと言うからだろ」
「牧さんがね…」
 仙道は胸の辺りを軽くたたいた。そうでもしなければ苦しくて仕方がなかった。なんだろうか、この感覚は。溢れ出てきそうで怖い。
「どうした?」
 憎まれ口を言いながらも笑顔だった仙道がほんの僅か表情を変えたのを牧は見逃さなかった。
「なんでもないですよ、バカになったらどうしよようかと…」
「おまえがか…それ以上は進まんさ」
 牧が吹き出すように笑う。楽しそうに。心から。やがて穏やかな笑みになり、仙道にむける。
 仙道は、目が合うと一瞬見つめてしまうが、すぐに逸らした。そうして、歩く先に目をやる。牧もつられて、やはり仙道と同じようにみつめる。
 互いに何か話そうとするが、言葉はでてこない。心地良い風が二人を通り過ぎてゆくだけで。
 並んで歩きながら会話のない静けさにも慣れたころ、交差点をまがってすぐにあった自動販売機で仙道は缶コーヒーを二つ買った。一つを牧に渡し、飲みながら、時に見合い、訳もなく笑いあったり。
 待ち合わせのホームがそうだったように、歩いている人があまりいない。そのせいもあるだろ。ゆっくりアスファルトの坂道を踏みしめるスニーカーの軽い足音が耳に心地よい。こんな穏やかな気持ちに、いつかは巡りあうのだと根拠もなく思っていた時があった。

 仙道は、今感じる牧と二人でいる事のまるでずいぶん昔から、そう遠い昔から自然に用意されていた居場所を見つけたと思った。

 坂道の途中で立ち止まり深呼吸をした。ふわりと胸の奥に、何かがゆっくりとあるべき場所へとおさまった事を感じた。確実に。
 遅れて立ち止まった牧が振り返り、
「どうした、疲れたか?」
「まさか…牧さんじゃありませんから」
 いたずらっぽく笑う仙道を、牧は目を眇めて見つめた。ほんの僅かな時間だけ。
「まだ着かないのか?」
「もうすぐですよ、ほら、あそこにちょっとだけ見えてます」
 仙道の指さす方をみて牧は、
「お前、あそこは…」
「俺の好きな場所です」
「お前、あんな所が好きなのか…」
「おかしくっても笑いっこなしですよ」




 図書館に隣接されているプラネタリウムには、小学校などがまだ休みにはなっていないからかここも人はまばらにしかいない。
 ただ、幼稚園にも入っていないような子供を連れた母親が、大きな男の二人連れを物珍しそうにみていたのは、仕方がないと言える。
 牧は何となく居心地の悪さを感じるが、仙道はまったく気にしている様子もなく、入り口で発券ボタンをおしている。
 チケットをもち、
「なに突っ立てるんですか?早くいかないと見れないですよ」
「…そか…」
 先を歩く仙道についていくが、牧はまだこの場所に慣れない。小さな男の子の横を通り過ぎるとき、変に目が合ってしまってその必要もないのに手を振り挨拶をしてしまう。気恥かしくて、なんとなくこそばゆい。困ったなと、鼻の先を掻いてみたり。しかし、こういう場所に馴染んでいるのかそうでないのか判らないが、仙道は気にすることもなく歩いている。

――― 訳がわからん…

 薄暗いホールにはいり、仙道が進めた席についた。が、
「この椅子小さいぞ」
「牧さんも文句言うんですね。意外…」
「あのな仙道…」
「いいからいいから気にしない。ほら、始まりますよ。前、向かなきゃ」
「まったく」

 ホールの中の明かりが落ちると、椅子がすこし倒れる。
 暗闇に目が馴染んだころ、小さな声で、
「俺ね、星を見るのが好きなんです…よくここに来てます、ひとりで」
「お前がねぇ…」
「牧さんもきっと…気に入ってくれると…」
 やがて、夜空一面に星が瞬き始めた。アナウンスの解説で、最初は冬の星座からはじまった。
 星が好きなら普通に夜空を見上げればいいものを、と、牧には不思議な空間にしか映らない。しかし、嫌じゃない自分もいたりするから、そんな自分に首を傾げてみたりもした。
 どのくらいの時間がたったろうか。
 ふと、仙道の方に顔をむけてみた。暗闇と言っても所詮はホールの中。声をかけようとして―――――やめた。
 静かな寝息をたてて仙道が寝入っていたからである。

――― なんだ、星を見るのが好きなんじゃなくて、星を見ながら寝るのが好きなんじゃないか…

「まったく…」

 また座りなおし、仙道が好きだと言った星を眺めることに専念した。
 解説のアナウンス以外はなにも音がない静かな時間。
 すぐ隣りからは、規則正しい寝息が聞こえる。微かに穏やかな寝息を聞き洩らさないように耳を傾けながら牧は、暗く静かな空間に身を預けるように目を閉じた。
 胸の奥が温かくなっていく。温かいのに、ひどく切なくもある。苦しいわけじゃないのに、締め付けられるようにも感じてしまう。
 焦がれる、とはまた違うもののような。

――― 俺はいったい…







 4月。
 月がまだ始まったばかりの午後、綾南高校の校門横に牧の姿があった。

 丁度部活を終えたバスケ部員達が帰ろうとしていた時、越野が先に気がついた。
「あれって、海南の牧じゃねぇ? てか、卒業したんだよなあの人…」
 越野の指さす方をみれば、先月卒業式を終えたばかりの牧がいる。
「どうしてこんなとこに?」
「用事でもあるんか?」
「さあ、わかんね」

 眩しそうに仙道は向こうに立っている牧を見つめた。
 あの日別れてから一切連絡を取り合わなかった。忘れていたわけじゃない。むしろ、牧を思わない時がないくらい、ずっと思っていた。
 どうしているか、何も言ってこない自分の事を少しは気にかけてくれているだろうか。自分が忘れずにずっと思い続けているように、牧も思っていてくれているだろうか。
 胸の奥でちりちりと痛むそれは、仙道を捉えて離してくれず。正直にいえば、苦しいと思ったこともある。
 けれど、そんなことは今はもうどうでも良い。牧が待っている。自分に会うために。
 嬉しくて。


「悪い、俺、牧さんと約束あったから先に帰るよ」
「え?」
「おい仙道っ」
 驚いている仲間たちに振り返りながら告げると、仙道は牧が待つ校門まで走りだした。
 
「牧さん」
 仙道の声に振り向いた牧は、
「仙道、練習はもう終わったか?」
「はい…、今日はなんで?」
「まぁ、ちょっとな。少し歩くか」
 促され、牧に少し遅れるようにして二人は歩き出した。
 緩い坂道を降りながら、
「仙道の…」
「俺の?」
「お前、下宿してるんだろ?何処にある?」
 首を傾げた仙道に、
「一度見てみたいと思って、お前の住んでいるところを」
「いいですよ、学校からそんなに遠くないです」
 何か面白いですね、と、仙道は牧と並んで歩き出す時にはにかむ様に言った。
 返事の代わりに牧は、顎で先を促す。
「踏切の手前を左です」
「そか」

 それきり会話らしいものはなく、緩やかな坂道を下る二人をまだ少し肌寒さを残す風が行き過ぎるだけで。
 仙道は、自分に会いに来た牧が何も話さないことに、理由さえもまだ知らされていない事に特に不満も不安も持たなかった。こうして二人だけで歩くことが特別な事のように思えるから。

 小さな交差点を左に折れ、15分ほど歩いた頃、
「あのアパートです」
 指さす方を見て、
「ああ…」
 目指すアパートの前に着いた時、
「部屋、上がりますか?」
「…いや、ここで良い。お前の住んでいるところだけ見たかっただけだから。海も学校も近くて良いな」
「ほんと、監督には感謝です」
 足元の石ころをコンと蹴る。その時、
「仙道」
「はい…」
「手をだせ」
 言われるまま右手を出した仙道のその掌に牧は、ポケットから出したものを渡した。
「これって」
 それは何処かのドア・キーだった。
 牧を見る。
「ん、なんて言うか…、あれだ、一人暮らしを始めた」
「牧さんが?どうして…」
「大学生になるから、ま、社会勉強かな」
 吹き出す仙道に、
「○○駅から10分のところのマンションだ。4階だから」
「…だから?」
「いつでも遊びに来たら良い。俺がいない時でも遠慮はいらない」
「牧さん…」
「じゃ、俺は帰るよ。用は済んだから」
 仙道の肩をぽんと叩いて、牧は踵を返した。
 手の中のキーを見つめ仙道は牧に、
「牧さんっ、なんでっ…」
 その返事のつもりか、牧は振り返りもせずに手だけをあげて振るだけだった。


 その夜。
 仙道はテーブルにキーを置いたまま寝転がっていた。
 昼間会った牧の事ばかりを考えてしまう。
 新しい部屋のキーだと言っていた。何時訪ねても良いのだと。牧が、多分自分だけに。
 
 彼の想い人は、今は誰かのものになっている。
 心の穴を埋めるために?叶わなかった変わりに?
 もし、そうだったとしたら。いや、そうだったとしても、牧が自ら動いて自分を誘いこもうとしている事実には変わりはない。
 だったら答えは一つしかない。

 仙道は起き上がり、キーを手に取った。

――― 牧さん、あんたの手の中に入るよ…それから…

「離さないからね」

 う〜んと伸びをした仙道は、今夜は眠れそうになかった。