手帳の栞はきみのメモ 


-桜吹雪か葉桜か その3-


 真行寺は受話器を握りしめたまま固まった。

「…アラタさん…あんまりっす…」

 しかも、切られて直ぐに掛けなおした時には、すでに電源は落とされていて、うー、とか、あー、とかしか口からでてこない。
 何が三洲の逆鱗に触れてしまったのか。
 そりゃもう一目瞭然で、真行寺にも判る。
 だが、しかし。
 春休みに会えた時、三洲は言っていたではないか、浮気はするなと。ならば、自分も言っていいのではないだろうか。
 なんせ、今、三洲が一緒に居るのは、あの相楽先輩なのだ。

「俺だって、そこまで馬鹿じゃないもん…」

 相楽が三洲の事を想っている。それが、ただの先輩としてではなく、もっと深いところで想っている。
 片想いの切なさがどんなものか、だから良く判るのだ。。
 何故なら、真行寺は経験者だから。
 つい、たまたま口から出てしまった言葉なだけで。三洲を信じていないとか、疑っているとか、そう言うのでは毛頭ない訳で。

「アラタさんのバカ…」

 なんて、ひょっとして三洲に恋に落ちてから初めて口にしたかもしれない言葉。
 離れているって辛い。
 顔が見られないのは辛い。
 声だけでは、心もとない。

 恋するって、大変だよなぁ…

 真行寺は受話器を戻すと、入寮直後の絶賛ハイテンション元気驀進中の欠片すら残っていない姿で、食堂に向かった。
 こんな時でも腹は空く。
 食べて気を紛らわすしかないし……どうせ俺なんて……、とぶつぶつ囁いている横で、そういう真行寺だからこそだろう、下級生から憧れの眼差しを送られている事に気づく事はなかった。




 その頃三洲は、呪いの言葉を携帯にかけたは良いけれど、相楽からの誘いをどうやって断ろうかと、思案の真っ最中であった。
 先輩から誘われたら、後輩はそれに乗る。
 先輩と後輩はそうあるべきである。と、在学中からそういうスタンスできていた。故に三洲は、今まで不義理を欠いた事がない。
 けれど、今日は乗り気がしない。
 真行寺とささやかな痴話喧嘩の前でだって少し躊躇していたのに、こんな気持ちのまま相楽の誘いには乗りたくない。
 ふと、携帯を見る。
 瞬間に浮かぶ案。

 俺って天才?

 相楽に満面の笑みを見せた後、席に戻るほんの数秒で準備を整える。
 席について、

「中座して、申し訳ありませんでした」
「構わないさ」
 三洲も忙しいのな、との相楽の声を聞きながら手帳を見やる三洲。
 すると、また三洲の携帯が着信を知らせる。

 まったく、誰だよ…三洲とのせっかくの時間なのに・・・

 そんな相楽の心の声は届く事もなく、三洲は携帯を開いて確かめる。
 困ったな、と言うような表情をすると。

「すいません、母からで…」
「ああ、いいよ。気にするな」

 三洲は席から立ち上がりながら、

「母さん、何?今、まだ大学に居るよ。……うん、そうなんだ…。え、俺も?それってどうしても?……うん…うん…はい…。大丈夫だよ。はい…。じゃや、切るよ」

 三洲はため息をつきながら、また席に着いた。
 手帳を仕舞いながら、

「相楽先輩、すいません。今日、誘って貰ったんですけど…」
「なんか、家の用事ができたのか?」
「ええ、伯父夫婦が来る事になって。これから食事会するそうです…」
「いや、良いよ良いよ気にするな」
「申し訳ありません、折角誘って頂いたのに」
「いや、俺だって今日、三洲に会えるとは思ってなかったから。会えただけで充分だよ」

 三洲は律義に頭を下げた。

「また、誘ってください」
「うん、今度な。何時だって会えるんだし」

 って言ったって、その今度って何時やってくるんだろう……

 相楽の心の声が聞こえるような気がするが、そこは軽く流す三洲。
 さくさくと別れの挨拶をすませ、三洲はようやく学内の目的の場所へと向かった。




 その夜の事。
 真行寺は、あれからずっと悶々とした時間を過ごした。
 部屋に居ても楽しくない。談話室に居ても食堂に居ても、それは同じ。ならば駒沢の部屋にでもと思っても、一階とは言え流石に階段長は忙しく、来客が引っ切り無しだった。
 結局、落ち着ける場所を探して探して寮内を彷徨い歩いたものの、どこにもいくあてもなくなってしまい、仕方なく自分の部屋に戻ることにした。
 丁度、電話台の前を通り過ぎようとした時、一つの電話が鳴った。
 
 はいはい、取次いたしますよ…

 少々やさぐれ気味に受話器を取り、

「はい、祠堂学院寮です」
『……』
「もしもし、祠堂の寮ですけど…」
『真行寺?』
「ああああ、アラタさんっ!」
『相変わらず煩いな、お前…』
「アラタさん、どうしたの?」
『ん?どうしたのって、そりゃあお前、呼び出して貰おうと思って』
「誰を?」
『270号室の真行寺兼満君を』
「アラタさん……」

 真行寺は、涙が出そうだった。三洲の声が、とても柔らかく聞こえたから。
 今日一日の憂鬱がいっぺんに晴れ渡り、夜空に綺麗な星が瞬いているような心境だった。

「アラタさん…俺…」
『今日はホントは誘われたんだよ、相楽先輩に』
「うん…」

 やっぱり…

『俺は大学生になりたてのひよっこだからな。遊ぶなんて早すぎるし…』
「……」
『それに…』
「それに…?」
『270号室のヤツに定期連絡があったし』
「…アラタさん…俺ね…」
『何?お前、また、泣いてるんじゃないだろうな?』
「泣いてませんっ」
 ぷくーっと膨れるように言ってる顔が見えるようで、三洲はクスクス笑っている。
「アラタさん…」
『先輩の誘い断ってまで真行寺の声が聞きたいなんて、俺も終わってるな』
「あ、あのねぇ、アラタさん…」
『今朝は、いきなり切って悪かった』
「いや…いいっす、もう…」
『どうした、真行寺?』
「俺…考えなしに、咄嗟に言ってしまって…」
『だろうなぁ。思慮深かったら、あんな事言わないな』
「う、う―――面目ないっす…」
『しおらしい真行寺に免じて、もう良いよ』
「アラタさん…、会いたいっす…」
『…そうだなぁ…、落ち着いたら、来週にでもご飯食べに行くか?』
「行く!行きます!絶対に、行きます!」
『お前って、相変わらず返事だけは元気良いよな』
「いや、返事だけって、そんな事ないっすよ…」
『…ふふん…』
「あ、そう言えばね、アラタさん……」

 心の閊えがなくなり、何となく温かくなっていく。
 そんな身体を壁に凭れ掛けさせて真行寺は、今日一日をどんなふうに過ごしたか、三洲に話して聞かせた。
 会えないけれど。寂しい気持はあるけれど、こうして三洲と声で繋がっていられる幸せを噛みしめながら、真行寺は受話器を握りしめ直した。