手帳の栞はきみのメモ 


-七夕ばたばた その2-


 舞台では能が始まった。
 が、真行寺にはそれどころではない。少ししたらロビーに出て行くのだ。怪しまれず、それでいて時間がたっても大丈夫なように。
 隣の席のクラスメイトに、

「ちょっと腹下してるみたい。トイレ行ってくる」
「気をつけてな」

 こそこそと言い訳話をして、さささとロビーまで出ていく。
 ロビーは、当たり前だが閑散としていた。一番端の階段横まで三洲を探しに行った。

「アラタさん、居た居た居た」

 近づくと、さっさとトイレに入っていくではないか。まあ、ここは仕方がない。祠堂時代からそうだった。隠れたお付き合いの二人なのだから。ただ、真行寺としては、本音を言えば隠していたくない。大声で叫びたい。みんなに言いたい。
 付き合っています。去年の生徒会長とだよ。あのやり手の生徒会長だよ。片想いじゃなかったんだよ。両想いです。
 三洲は卒業しているのだから良いのではと思うのだけれど、いかんせん、二年間をこっそりこそこそな秘め事として過ごしてきた習慣は、悲しいかなそうそう変われるものではなかった。夜な夜なの電話デートでも、なぜか小声だし。侮るなかれ、習慣。

 それはさておき。
 三洲の後についてトイレに入ってみれば、女子用に入っていく。

「良いの?」
「祠堂は男ばかりだから。こっちの方が安心だろ?」
「はあ…まあ…ですね」

 この際、居心地の悪さには目を瞑ろう。

「アラタさん、会いたかったっすよー」
「相変わらず、お盛んで」

 腕を組んでいる三洲は、くすくす笑っている。いつだって見飽きる事のない、真行寺が焦がれてやまない笑顔だ。
 真行寺は、なんだか不思議な気がした。
 開演前に少しだけ話をしたあの時、心の中はざわざわと何やら落ち着かなかった。三洲と二人きりではないのは仕方がなかったとしても、例え、相楽が側にいたとしても、どうしてあんなにも不安でもやもやしていたのだろう。酷く荒んでいる感覚だった。辛く、切ない感覚。
 それが今は、すっかりなくなっている。
 手を伸ばせば届くところに三洲がいる。
 きっと、それだけで安心できているのだろう。

「アラタさん、抱きしめて良い?」
「良いよ」
「アラタさん…」

 ゆっくりと、けれどしっかり三洲の身体を抱きしめた。項に顔を埋め、三洲の匂いをいっぱいに吸い込む。ちょっぴり汗ばんでいるけれど、それさえも愛しい。

「アラタさん…」

 間近にみる三洲の瞳には自分が映っている。
 堪らなくて。堪らなくて。互いの唇を合わせた。
 触れあわせ、角度を変えて舌を差し入れる。待っていた舌に絡み合わせて吸いあげる。

「ん…」

 三洲だって同じ気持ちなのだ。
 会いたかった。
 口にこそ出して伝える事はしないけれど。いつだって真行寺の言葉が、すべてを伝えあえているから。
 在学中の、思えば恵まれていた二年間。簡単に会えていたあの頃には、感謝などした事がなかったというのが正直なところだ。離れて、ようやく宝物のようだったと思える二年間だった。
 それでも、離れることによって、物理的な距離が二人の間にあるからこそ、会えた時の満たされる瞬間が堪らなく愛しく感じる。こんなにも惹かれている事を改めて実感させられる。

 チュッと濡れた音を立てて、唇をはなす。
 真行寺は親指で、睡液で少し濡れている三洲の唇を拭った

「アラタさん…」
「何だよ、さっきから名前ばかり呼んで」
「だって…呼びたいから」

 ちょっぴり口を尖らせている真行寺の子供っぽさに、三洲は口元を綻ばせた。

「今日の事黙っていて、悪かった」
「ううん、良いんだアラタさん」
「そうか?」
「きっと俺の事、気にしてくれたんだよね」
「まな。本当は大路達と来る予定だったんだ。だけど、みんなダメになって…」
「判ってる」
「相楽先輩と来る事になったのだって、昨日だったから」
「そうなんだ」
「言えば誰と行くかって話にもなるだろ?そうすると、相楽先輩の名前もでるし。お前、きっと気に病みそうだし」
「すんません…」
「良いよ、仕方がない。真行寺には去年の事があるからな。気にするなって言う方が無理なんだろ」

 優しい笑顔だった。
 真行寺は目を瞠った。今までは、煩いくらいに「先輩」であることを言っていたのに。
 歩み寄ってくれている。
 真行寺の心のうちにある、どうしようもない部分を、三洲なりに理解しようとしてくれている。

 思い出すのは一年前。やはり七夕の頃だった。三洲との心の距離にやりきれなくて、けれど、それが三洲にとって良い事ならば受け入れようと思った。相楽が側にいる方が良いのなら、自分では役不足なら潔く身を引こう。倒れた三洲に近寄る事が、だからできなかった。相楽の腕が逞しく見えたから、見舞いさえ行けなかった。辛く、心は切ないよりも痛く。堪らなく痛くて、あの夜に見た月が滲んで見えるほどだった。
 真行寺が相楽に対してだけは自信がなくなってしまう、そんな気持ちに今でもさせてしまう程にトラウマになっている。
 どんなに三洲が「相楽は先輩なだけ」と言っても、そうそう変われるものではない事を、三洲は受け入れることにしたのだ。いつだって元気印の真行寺が、まっすぐな真行寺が頭垂れてしまうしかないほどに傷ついたのだから。

「前にも行った事があるだろ?」
「???」
「嫌な思い出は良い思い出で上書きしていこうって」
「うん…」
「そう言うことだ」
「アラタさん…」

 有難うの気持ちを込めて、真行寺は三洲をまた抱きしめた。
 この人が好きだ。真行寺は強く思った。

「そうだ」
「な…なに、アラタさん。良いところなのに…キスしようと思ったのに」
「はいはい。お前、インハイの予選の決勝って何時だ?」
「まだ二週間ほどありますよ」
「そか」
「え、まさか応援に来てくれるんすか?」
「どうしようかな」
「嬉しいっす。来てください!」
「て言うか、そもそも、決勝まで進めるのか?」
「当たり前っす。今年はインハイ狙ってますもん」
「去年はダメだったのに?」
「去年は去年です。今年は今年ですから」
「部長だもんな」
「もちろんっす」
「俺が応援に行くんだ。勝てよ」
「はい!」
 
 真行寺の元気な返事に、互いに顔を見合わせて笑ってしまう。
 気を取り直して、さあキスを。
 甘い思いを込めて、と思ったら、なにやらロビーがざわついている。

「一部が終わったみたいっすね」
「みたいだな」
「お前、もう行けよ。俺も戻らないと変な勘ぐりされるから」
「あーもー、もう少しでキスできたのに。したかったのに」
「じゃ、ちょっとだけ」

 チュッ。
 三洲からの触れ合わせるだけのキスは、真行寺にとってこの上もなく甘かった。




 願い事 一つだけ
 真行寺がいつまでも元気でありますように