優しい嘘 -プロローグ-



 免許証と定期券を入れているパスケースには、一枚の写真が入っている。
 四隅の角は少し擦り切れていて、色あいもセピア色に近く、もう随分前に撮影されたものと判る。
 真行寺が、時折その写真を出しては懐かしむように指先で撫でるせいもあってか、表面の光沢も薄れてきている。
 写真に写る彼の名は、声には出せない分、真行寺の胸の奥深くに沁み込んで来る。



 あれは、二学期の終業式の日。
 それぞれに麓に降りた後、祠堂の生徒の出入りが少ない書店で待ち合わせをした。ようやく真行寺が、文化祭の直前に告げられた両想いであるという事実に慣れてきた頃だった。
 参考書売り場で立ち読みをしていた彼に近づくと、真行寺が焦がれてやまない笑みで迎えてくれた事が嬉しくて。本当に嬉しくて。
 この日の二人を何かに残しておきたくて、真行寺は半ば強引に近くの写真館に彼を連れて行ったのである。
 散々憎まれ口を叩きながらも彼は、真行寺の願いを聞き入れて、被写体が二人だけの写真が出来上がった。
 二枚焼いてもらった写真の一枚を彼に渡し、もう一枚を真行寺は生徒手帳へと仕舞った。

 年が変わり大学受験が本格的に始まると、彼とは殆ど電話でしか話せない毎日だったけれども、それでも真行寺は満ち足りた三学期を過ごしていた。
 今は大事な時だから。卒業式には会えるのだから。
 それが終われば、今度は自分が受験生になる。彼を追いかける。同じ大学に進むため、受験勉強に明け暮れる一年間が始まる。
 そうして、その先には。


 寒の戻りの中を、雪がちらちら舞っていた。
 疑う事を知らない、まるで無垢な子供のような心に堕ちてきたものは、彼からの別れの言葉だった。
 底冷えのする朝の澄んだ空気と、低く落ち着いた彼の声はとても良く似ていると思った。
 だからかもしれない。真行寺は、彼の言葉を静かに聞く事ができた。

 互いに見つめ合ったまま、じっとしていた時間は僅かな間だったのか、それとも長かったのか。
 彼の言葉に納得した訳ではない。
 了解も、認めた訳でもない。
 何も言えなかったのは、彼の瞳があまりにも澄んでいたから。
 何かを決意した瞳の前では、我を通す事はできなかった。
 彼のために。
 ただただ、彼のためだけに。


 15歳で出会った一つ上の三洲。
 あの日から真行寺の中の時計は、人としての想いをまるで刻むように動き始めた。

「さよなら、真行寺」
 遠ざかる背中がこんな時なのに凛として見えるのは、それが三洲だからだ。
 ともに歩き続けたいと切に願った三洲だから。

 真行寺は、自分の中の時計が止まった事を感じた。


三洲の卒業で別れたその後の二人のお話。
11月25日〜12月28日