優しい嘘 -5- 完



 初めて三洲に手紙を書いたのは、今でもはっきりと覚えている。
 二月の半ば。祠堂に合格した事、また、会える日を楽しみにしている事、そうして、チョコレートと一緒に送った。
 二度目は、三洲が卒業した後。4月の始めだった。階段長になった事、きっと同じ大学に行く事を伝えた。結局は、三洲に聞かされていた進学先には、彼はいなかったのだけれど。
 それからは、暑中見舞い、年賀状、似合わないと言われそうな季節の便り。

 携帯電話はすでに解約されていたために、嫌がるだろう事は承知の上で、三洲の卒業後に、一度だけ彼の家に電話を掛けた事があった。
 三洲の母親の言葉から、流石に抜かりのない人だと、いっそ清々しいくらい感心したものだ。

「ごめんなさいね、真行寺くん。あーくんから固く口止めされてるの。祠堂の人には絶対に教えるなって。だから、何処の大学で、何処に住んでるかは言えないの。本当にごめんなさいね」

 受話器から聞こえる声は、本当に申し訳なさそうな声音だったから、それ以来、電話はしなかった。
 だから、筆まめではない自分にできる、たった一つの三洲との繋がりが手紙だった。
 返事が来た事は、ただの一度もない。けれど、三洲の母親ならば、必ず三洲へ渡してくれると信じていた。
 卒業式の日に別れの言葉を聞かされてからは、毎年、懲りもせずに送り続けている。
 だから、これから自分がしようとしている事に、彼はきっと何かを感じてくれるはず。

 京都で再会し、名古屋で大切な話一つできなかった。できなかったけれど、確信したこともあった。
 当てもなく漠然と待つ日々は、もう終わりにする。
 動く事の出来ない三洲に代わって、自分が動く。

 年が変わり、送り続けていた年賀状を、今年は送らなかった。
 寒中見舞いも出さなかった。
 別れを言われてから、九回目の三月の終わりに、三洲へ一枚の葉書を送った。
 どうか、彼の心に響いてくれますように。
 祈るような気持ちでポストに投函した時は、笑えるくらいに手が震えていた。
 多分、この葉書が三洲との最後の絆になるはずだから。
 どうか。どうか彼の元に。






 三洲は、年度初めの雑務に追われていて、流石に疲れていた。
 母親の理子が、一人息子が離れている寂しさもあるのだろうが、今年はやけに少しは帰って来いと電話攻勢が凄かった。
 一人暮らしの生活に不便も困る事もないのだけれど、今夜は久しぶりに実家へ帰ることにした。

「ただいま…」
「お帰りなさい、あーくん」

 労いの言葉と共に玄関まで迎えに来てくれた母は、本当に嬉しそうだ。
 やっぱり家は良いなと思う。唯一、帰れる場所だから。

「母さん、あんまり帰ってこれなくて、すいません」
「良いのよ、あーくん。お仕事が忙しいものね。元気そうで良かったわ。晩御飯の用意が出来てるから、着替えてらっしゃい」
「そうするよ」

 二階にある自分の部屋へ向かおうと階段をのぼりかけた時、母が声を掛けてきた。

「そうそう、真行寺くんから久しぶりに葉書がきてたわ」
 心の内で、その名前にびくっとしたが、気がつかれてはいない。
「そうなんだ…。そう言えば、年賀状も来てなかったって?」
「そうなのよ。でも、その理由が判ったの!」
「理由?」

 三洲は、母の声音が弾んでいる事に、何かひっかかった。
 何か、漠然としたもの。

「理由って?」
「真行寺くんね、結婚したのよ」
「……」
「ほら」

 母から渡された葉書を見る。
 裏には写真が印刷されていて、フォーマルなスーツを着た真行寺がウェディング・ドレスを着た花嫁の頬にキスをしているものだった。
 瞬間に、冷たいものが身体の中を堕ちていく。たゆとうて溜まり、ゆっくりと満ちていく。
 満ちていたものが溢れる頃にはそれは、飛沫をあげ真っ逆さまに堕ちていく目も眩むような感覚になっていた。
 凍るほど冷たく、なのに焼き焦がされるほどに熱く。 紅く黒い焔。
 猛烈な嫉妬が三洲の全身を駆け巡り、それがどんなに理不尽な感情だとしても、押さえる術はなかった。
 

「あーくん!」

 気がついた時には、車のエンジンを掛けていた。
 母の声が聞こえた気がしたが、構わずに車をだした。
 運転しながら、ナビに葉書に書かれてある真行寺の住所をインプットする。目的地までの時間は一時間。
 逸る気持ちをせめて運転に支障がないように押さえても、三洲は前しか見えていなかった。
 真行寺しか、見えていなかった。


 目指すマンションに着くと、適当なところに車を停めた。
 何処をどう走ってきたのか、まるで覚えていない。
 葉書をもう一度見て、三階までを階段で駆け上がった。エレベーターを待つ余裕がなかったのだ。
 一刻も早く真行寺の顔が見たくて。

 三階の305号室。
 震えの止まらない指でインターホンを鳴らす。
 中からの反応はない。
 もう一度、二度、三度、インターホンを鳴らし続けた。

――― 真行寺っ!

 早く出てくれと、ドアを叩こうとした時、突然、ドアが開いた。

「はい、誰?」

 思わず三洲は、後ずさってしまう。

「アラタさん…」

 何か言わなければ。ここまで来た訳を言わなければ。
 そう思うのに、三洲は何も言えずにいた。

「アラタさん、やっぱり来てくれたんだ」
「は?」
「中、入って」

 真行寺は何を言っているのだろう。
 なのに、考えようとする前に真行寺に手を引かれて、部屋にそのまま入った。
 通されたところは居間のようだった。
 周りを見渡すが、真行寺の他には誰もいない。
 何故?
 どうして?

 真行寺に問いかけようと振り向いた時、抱きしめられた。
 
「アラタさん、やっと捕まえた」
「お…おまえ…」

 真行寺は、三洲の背中を撫でながら抱きしめる手を緩めない。
 三洲は、今どうして真行寺の腕の中にいるのか。あの写真は何だったのか。

「真行寺っ、お前、騙したのかっ?」

 言いながら腕を振り上げたが、真行寺に難なく捕まってしまう。

「ごめんね、アラタさん…。だけど、こうでもしないと、アラタさん、ホントの気持ちを俺に言ってくれないもの」
「真行寺…」

 真行寺がまた三洲を抱きしめた。
 この腕の中が、本当にかけがえのないものだったから。本当に大事だったから。大切だったから。
 だから、離れる事を選んだのに。
 18歳の決意は、三洲にとっては辛いものでしかなくても、すべては真行寺のためを思ってしてきた事なのに。
 だから、耐えてこられた。会えなくても。
 真行寺がくれる手紙に心を動かされなかったと言えば嘘になるけれど、忙しく毎日を過ごさせて、自分を押さえてきた。
 去年、京都で偶然に出会って。次の日に、やはり偶然が真行寺に抱かれるように仕向けてきた時。
 真行寺が眠っている間に離れなければ、きっと、縋ってしまいそうで。
 限界はとうに超えていたのかもしれない。
 三洲は力が抜けたように、抱きしめられたまま座りこんでしまった。

「アラタさん…言って。教えて。俺、バカだから言ってくれないと判んないよ…」
「真行寺…」

 三洲が目を閉じると、涙が頬を伝い落ちた。

「俺は…」
「うん…」
「俺は、自分が思っている以上に、執着してしまうんだ」
「うん…」
「真行寺に執着してしまう。お前の事を好きだと自覚してから、それが…どんどん酷くなっていくのが判って…」
「俺は、嬉しいけど…」
「駄目なんだよ…。執着して、しつくして、いつかお前を壊してしまう。そんな自分が怖くて…」
「大丈夫だよ、アラタさん…」
「真行寺…簡単じゃないんだ…」
「ねぇ、アラタさん。俺は、アラタさんが好き。今でも、すっげー好きだよ。誰とも付き合わなかったし、気持ち変わらなかった。アラタさんは?」
「お前の事…を…忘れた事はない…」
「うん、判ってる…。こんな事して、ごめんね」
「真行寺…」

 真行寺は三洲の涙をぬぐうと、両手で顔を包んだ。
 そっと唇を合わせ、すぐに離れる。
 真行寺が微笑む。額をコツンと合わせて、二人は互いの温もりを感じるように抱きしめあった。
 




 三洲は、いきなり飛び出した息子の事を心配している母に連絡をいれた。
 今夜は真行寺のところに泊る事、あの葉書は冗談だった事を伝えると、母はほっとしたような明るい声で笑っていた。

 その夜、二人は、真行寺のセミダブルのベッドで、時間を忘れたように過ごした。
 結婚式の写真は、従姉妹に頼んで撮らせて貰ったとのこと。
 あの日の事も、互いに話し合った。
 三洲は、真行寺の事を思って嘘をついた事を謝った。
 真行寺は、三洲を捕まえたい一心で嘘をついた事を謝った。



 二本の糸が絡み合いながら離れ。
 けれど、平行線は保ったまま、それ以上は離れていかなかった。
 いつか、絡み合う事を信じて。


三洲の卒業で別れたその後の二人のお話。
11月25日〜12月28日