小さな海 -1-



 待ち合わせの時間から数分が過ぎる。
 地下街にある中央コンコース脇の柱に凭れて、今がちょうど帰宅ラッシュの人の波をぼんやりと見つめた。
 社会人になる前は、待ち合わせ場所にはいつも真行寺が先に着いていた。三洲が約束の時間に間に合っても、遅れてしまって申し訳ない気持になってしまう。そんな愚痴に彼は、会いたくて会いたくて、逸る気持ちに急かされて早めに来てしまうと言い訳していた。
 こうして待つ事が多くなれば、それらのことが良い思い出になっているのが不思議だ。

 今日は真行寺は遅くなるのだろうか。たまには外で夕食をと言いだしたのは彼の方なのに、帰り際に急ぎの仕事でも頼まれたなら、上手く断る事は出来ないだろう。真面目な性格がそうさせるのを三洲は良く知っていた。
 苦笑しつつ、もう一度腕時計で時間を確かめるため僅かに俯いた時、視界に映る人がいた。
 自分に近づいてくる。
 真行寺だと思い自然に頬が緩むのを止められなくて、しかし、違う事が判った時の気落ちしていく気持ちと一緒に笑みが消えていくのを、自分ではどうしようもないくらいに自覚してしまう。

「久しぶり、三洲」


 時間が、止まった気がした。


「……」
「俺の名前なんて、もうとっくに忘れただろ?」
「いえ、思いだしました」
「さすが、三洲」
「……」

 人の良い笑みを作るその男を見つめ、三洲は身体がすうーっと冷えていくのを感じた。あの時に感じた同じ冷たさだった。
 あれから何年になるだろうか。祠堂にいた時に出会った男。名前は、鈴木とも加藤とも、伊藤でもいい、好きな名前で呼んでくれと、ずいぶんふざけた事を言っていた。先輩である事は確かだったようだけれど、それ以外は判らない。謎のままだった。

「こんなところで会うなんて思ってなかったよ」
「俺もですよ。まさかとは思いますが…」
「三洲が思ってるような事はないよ。偶然さ」
「そうですか。俺は安心していいんですよね」
「もちろん」
「先輩は、都内で仕事を?」
「いや、今は関西にいる。出張で来ているだけ。それにしても三洲は、あの頃とあまり変わらないな」
「ずいぶん変わりましたよ、俺は」
「いいや、変わらない。相変わらず綺麗な顔立ちをしてるし、雰囲気も同じだ。君は祠堂で出会った時と一緒で、今も警戒心の壁を作っている。頑丈なね。君のテリトリーに入れるのは、多分あいつだけ。何て言ったかなあの年下のヤツ…、そうそう、思いだした。真行寺だけなんだろう」
「好きに解釈して下さい」
「ほんとに相変わらずだな」
「……」

 目の前の男は、心底楽しそうに話す。声には、あの頃と変わらない柔らかみが滲んでいる。なのに、良い思い出なんてこれっぽちもない。
 祠堂の二年時に、後期の生徒会長に選ばれた。毎日が忙しく過ぎていく中で、確か、初雪が降った日だったと記憶している。




 風紀委員や評議委員から上がってくる事案に目を通している時だった。

「三洲」

 顔をあげて声をした方を見ると、ドアを開けたままで戻ってきたばかりの役員が呼んでいた。

「何?今は忙しいから、事案要綱だったら置いていってくれ」
「いや、じゃなくてさ」
「ん?」
「三洲にお客がきてるよ」

 お客と言う言葉に、そこにいた役員達も気になったのか、みな手を休めてドアの方をみやった。

「先輩だっていってる」
「あ―、わかった」

 三洲は副会長の大路にすこし席を外す事を伝え、行くことにした。

「何、誰だって?」
「先輩って言ってる、ほら」

 顎をしゃくって示したところには、確かに生徒が一人いる。 窓際に凭れて、ゆったりとした感じで外を見ている。
 祠堂に入学して一年と半年あまり。生徒会執行部の先輩達との交流もあり、三洲はかなり顔は知られていた。交友関係も同じくらいに広かった。しかし、自分の客だと言うその生徒の横顔には見覚えはなかった。
 近づいた三洲に気がつき、その男は顔をこちらに向けた。
 親しい友に再会をした時のような、そんな笑顔が印象的な男は、ポケットに手を突っこんだまま声を掛けてきた。やはり、声にも記憶がなかった。

「三洲、だね」
「はい」
「初めましてになるな、こうして話すのは」
「そうですね。先輩なんですよね…」
「そうだよ、おれは三洲の先輩にあたる。見覚えはない?」
「申し訳ありません。名前は…」
「鈴木」
「そうですか」
「加藤」
「は?」
「伊藤でも良いよ」
「何言って…」
「三洲は俺の事知らないんだろ?なら、名前なんて意味がない。三洲の好きな名前で呼んでくれて良いよ」
「そんなこと、できません。正しく教えてください」
「好きに呼んでくれ」

 少しの違和感を覚える。それは三洲にとって、祠堂に入って初めて感じた不安だ。

「何か用事でしょうか?」
「生徒会の仕事が終わった後、会って欲しい」
「忙しくて、時間がとれません」
「まあ、そう言わずに。君は、多分断れないよ」
「何故ですか?」
「三洲は退学させたいのかい?」

 誰を?とか、何故?とか、頭の中を言葉がぐるぐると飛び交っているのに出てこない。目の前の男が誰の事を言っているのかが判ったからだ。

「生徒会の仕事が終わったら、そうだな、音楽準備室きてもらおうかな」
「判りました」
「じゃ、待ってるから」

 男はそう言い終えると、三洲の肩をぽんと叩いてその場から離れていった。
 遠ざかる足音を聞きながら、一つの事に頭を巡らせる。
 真行寺とは、人の目につきやすい時間や場所では話などしていない。何時だって、煩く付きまとわれて迷惑な態度で接している。ならば、深夜の逢瀬を見られてしまったのだろうか?あんなにも注意をしていたと言うのに。

 真行寺兼満。
 一学年下の彼は、あの受験の日から追いかけてきている。
 煩わしいと、そう思ったのは実のところ最初だけだった。話すうち、思い返せば、真行寺にバスに遅れないようにと言った時には、もう心の中に入る事を許してしまっていたのかもしれない。でなければ、告白も、身体さえ自由にさせなかった。

「真行寺…」

 静かな放課後の中に、三洲の声が零れる。
 今はもう手放せなくなった名前を声に出した事で心は決まった。



 初冬の陽は落ちるのが早い。
 薄暗い廊下に常夜灯の明かりが鮮やかにうつる。

 これは保身のためじゃない。
 守りたい確かなものが、自分にできたからだ。守れるならば、なんでもやってやる。

 三洲は浮かんだ面影を振り払い、音楽準備室のドアノブに手を掛けた。


真行寺×三洲。オリキャラもひとり。三洲と少々絡みます^^;
12月15日