小さな海 -2-



 三洲は寮の玄関で靴を履きかえながら唇を拭った。そうして、疲れた溜息を零した。
 歩き出そうと振り向いた時、階段の向こう側から馴染みの声が数人の声に混じって聞こえてきた。耳に心地良いそれは真行寺の声だ。友人達と夕食をすませて、食堂からの帰りなのだろう。

「あっ、アラタさん!」

 三洲を見とめた時の真行寺の声は、いつだって明るい。今は、それが救われる。それでも人目がある時は無視をするのが三洲のルールだ。
 友人達に両手を合わせて謝りながら、真行寺は三洲のもとに駆け寄ってきた。その背に、他聞のからかいを受けても、もう慣れたものである。

「アラタさん、今日ね生徒会室に行ったっすよ。いなかったですよね。別個で会議とかあったんすか?お疲れ様っす」
「うるさい」
「今日は、もう会えないかと思ってたから、嬉しいっすねー」
「……」

 傍からみれば、上級生に煩く纏わりつく下級生にしか見えない。こめかみに人差し指をあてて、これ以上ないくらい迷惑な顔をしても、それでも真行寺は付いてくる。二階まで上がり自室に向かっていると、廊下には珍しくひと気がなかった。三洲は後ろを歩いていた真行寺の上着を掴み、さっと給湯室に入った。

「ア…アラタさん?」
「黙ってろ」
「は…」

 真行寺の返事を最後まで聞かず、噛みつくようなキスをした。僅かな時間だとしても、真行寺の少しかさついている唇に触れたかった。いまだ残る感触を消したかった。何でもない事と言い聞かせる為には、真行寺を感じるしかなかった。
 キスを終えても真行寺はぼんやりしたままだったが、そんな顔にほっとしてしまう。固くなりかけていた心がとけていくような、そんな無邪気な顔が見れるだけで、それだけで良いと思える。

「今夜、いつもの時間にいつものところで」
「あ…はい!了解っす」
「遅れるなよ」

 言い終えて、給湯室に真行寺を残したまま自室へ向かった。





 
 男の待つ音楽準備室は、薄明りだけがついていた。
 後ろ手にドアを閉める三洲を、奥の机に腰掛けていた男はやはり人の良い笑みを浮かべて見せてくるだけだった。

「何か用事があるんですよね」
「そうだな、三洲にもあるし、君の―――真行寺にも興味がある」
「…」
「そんなに警戒しなくていいさ」

 近づいてくる男の声は、どこまでも落ち着いている。それが不思議でたまらない。真行寺と二人でいるところを見られたのだろうと思うが、どこでだろう。あんなにも気をつけていたのに。

「男ばかりの学校で、どんな風に過ごせるか楽しみにしてたんだよ。秘密を持つって、わくわくするだろう。それか、知った方のがわくわくするのかな」
「意味が判りません」
「真行寺は人懐っこくて明るいね。彼を見てると、元気になってくる。何事にも手を抜かずに、一生懸命だし」
「…」
「でね、そんな真行寺を見てたら、彼はいつも誰かを見てるんだ。探して探して。見つけては喜んでる。誰を見てるんだろうと思ったら、いつも三洲、君を見てるね」
「…」
「好きなんだろうなと思ったよ、君の事が。で、三洲を見たら冷たくあしらってるし、ああ、片想いなんだと思った。なのに、三洲も真行寺を見つめてる時があるね。煩い奴って感じで見てるのに、目元が優しくなる瞬間がある。気がついてた?」
「…いいえ…」
「だろうね。あれは、多分…意識してないと思うよ」
「俺にどうしてほしいんですか?」

 男の形の良い唇に、薄い笑みが浮かんだ。背中を冷たい汗が流れる。

「警戒しなくて良いと言ったろ?別に、三洲を抱きたいわけじゃない。そんな気はない。だけど―――」
「なんですか?」
「そんな気はないけれど、興味はある」
「…だから?」
「キスをしよう」
「…」
「三洲にとって、たかがキスだろう?」
「そう…ですね。さっさと、どうぞ」
「潔いね、気に入ったよ」

 男の手が顎に添えられた。ゆっくりと重ねられるものを受け入れるが、目は閉じない。
 そうだ、こんなもの。たかが、肌のどこかが触れただけのものじゃないか。
 ああ、だけど―――。

――― 真行寺…

 目を閉じると、笑顔が浮かんでくる。どんなに辛くあたろうと、辛辣な言葉をかけようと、真行寺は笑顔を返してくれる。捉われている心にそれがどんなに嬉しいか、真行寺は理解しているだろうか。
 男から解放された時、長くて暗い底からようやく明かりが見えてくるような感覚だった。

「これで用事は終わりですね。失礼します」

 もう用はないと踵を返すと、妙に明るい声が聞こえた。

「またな、三洲」

 次もあるということだろうか。返事はしなかった。





 海側のいつもの空き部屋で、真行寺が来るのを待った。淡い月明かりが心に優しさを落としてくれる。
 約束の時間を少し過ぎたころにやってきた真行寺は、遅れたことへの詫びを口にするが、そんな事は、もうどうでも良かった。
 腕を引いて、互いの唇を重ねた。腰を引かれる。その強さに、胸の奥がじんと痺れる
 抱きしめてほしい。
 身体に真行寺の重みを感じたい。暗闇の中で、二人だけしかいないと感じさせてほしい。
 ベッドの軋む音が、遠くに聞こえる。

「カラダダケノカンケイ」

 真行寺に言い張っていた言葉が、初めて意味をなくした夜だった。


真行寺×三洲。オリキャラも三洲と少々絡んでます^^;
2月1日