夜勤明けの疲れた身体に凭れるように寄り添う女に、ドアを開けて中へと顎で促す。
女はパンプスを脱いで部屋の主よりも先にあがり、慣れたもので、そのままバスルームに向かう。
その背中を三洲は冷めた表情で見つめた。
この付き合いももう何か月続いているだろうか。同じ大学病院に勤め、偶に廊下ですれ違うこともあるというのに。
それもこれも、後腐れない関係しか築いていないからできること。。
小さくため息をつき、自分も後に続いて入って行った。
女がバスルームから出てくるまで20分はかかるだろう。
ネクタイを解きながら寝室とは別の、仕事用だと伝えている部屋に入る。
相変わらずの携帯電話嫌いではあるが、パソコンでのメールのやり取りは苦ではなかった。
上着とネクタイを椅子にかけ、ノートパソコンを開くとメールの着信を知らせるアイコンが点滅している。
心当たりが一つだけある。
三洲は逸る気持ちに急かされるようにメールを開いた。
――― 待ってたんだよ…
若林教授からのメールにざっと目を通した後、三洲は急いでバスルームに向かった。
シャワーの音で聞こえないかもしれないが、バスルームのドアを叩いた。
「ちょっと開けるよ」
声を掛けながらドアを開け、女の背中に、
「君、済まない。仕事が入ってしまった」
「まあ…」
驚いて振り向く顔に、申し訳ないという柔らかな笑みを作り「ごめん」と。
「先生、ほんとにお忙しいのね。帰らなきゃダメ?」
「ああ、外せない仕事でね。君にも判るね」
仕方なく頷くのを見て、
「駅までなら送ってやれるから」
「…大丈夫です。子供じゃないし」
「すまない。じゃ、悪いけど支度急いでくれる?」
そう言って三洲はバスルームのドアを閉めた。
女が帰った後の一人きりの部屋で、三洲は若林教授からのメールを何度も読み返し。その都度、ため息が零れてしまう。
――― やっぱりな…
こうなることは予想はできていた。
『三洲 新様
ご無沙汰しています。
何時かはお礼をと思いながら、未だできていない事を申し訳なく思っています。
貴殿に、紹介とその上かなりのお骨折りを頂いたおかげで、スペインでの学部の研修は今、滞りなく進んでいます。
貴殿のアドバイスにもありましたが、先発させた真行寺君の頑張りには目を瞠るものがあり、現地の方々からも大変喜ばれています。後に向かわせた研修生達が困らぬよう、細かな配慮をしてくれています。彼は本当によく気配りのできる青年です。
真行寺君以外の研修生は何人かは入れ替わり、その都度、私もスペインに行っていましたが、そろそろ任せられるところまできていると判断致しているところです。
誠に私事ではありますが、私も教えた甲斐があるというものです。
さて、先日の貴殿からのご質問の件ですが。
当初、軌道に乗るまでという約束の下で真行寺君を先発に向かわせましたが、少しばかり状況が変わってきています。
真行寺君を向こうの所長や施設関係者の方々が非常に高く評価して下さり、実習をこちらの病院でと申出て頂いている次第です。
今、この分野は日本のみならず、海外でも注目されており、伸びていく分野だと思っています。真行寺君が目指す物の形が、もし海外にもあるものならば、この申し出は彼にとってまたとないチャンスではないかと思うのです。
ですが、まだ真行寺君へは伝えてはおりません。彼も、いずれは帰国をと願っておりましたから。
私個人としては、本腰を入れて現地に残ってもらいたいと。あくまでも個人的な意見ですが。
ですので、貴殿がお尋ねになられた真行寺君の帰国の時期については、今は未定としか言えない事をお詫びしなければなりません。
曖昧な返事で大変申し訳ありません。
○月10日
若林 拝
』
胸が苦しい。
「俺の顔に泥を塗るな」と言い、送り出した時から。いや、真行寺が断る状況を作らせないように完璧に根回した時から。
根回しの為の一言一言を発する毎に、苦い物が込み上げてくるのを気づかぬふりができる処まで、心の奥底まで本心を隠れさせてまでした時から。
本人にそんな自覚はないだろうが、馬鹿がつくほどの真っすぐで真面目な性格は周りにいる人を惹きつけてやまないものがある。
だからこそ、真行寺をどこへもやりたくなかったのに。
相楽先輩のあの時の電話で頼むからと言われてしまえば、断る事等できる訳がない。祠堂での音楽祭の一件で世話になった事が枷になり、不本意であっても承諾しなければならなかった。どうせ崎からの入れ知恵だろう事はわかっていたのにだ。
プライドの高い完璧主義の性格が、こんなにも恨めしいと思った事はない。
自分で作ってしまった借りなんて、とっとと返してしまえばよかった。
――― 忙しかったからなんて、今更だ…
机に肘をつき、組んだ指に顎を乗せて、どうしたものかと思案する。
真行寺を行かせる為だけの根回しは比較的簡単だった。が、今回はそうはいかない。
相手は日本だけじゃないから、余計に厄介になる。
三洲は引き出しを開けると、一枚の絵葉書を手に取った。
落ちついたらハガキでいいから連絡を寄こすように、落ち着き先だけが判ればいいだけだから一回だけで良いと言ったら。真行寺は本当に律義というか何というか。
飛行場で見送ってから、程なくして絵葉書が届いた。しかも、ほんとうに一枚だけしか送って寄こさなかった。
住所と携帯番号と、そうして相変わらずの字で書かれたあった「アラタさんのためにガンバルよ!」の文字。
これを書いているアイツが想像できて。簡単に想像ができて、らしくなく鼻の奥がツンとした事を覚えている。
祠堂を卒業して、本当に追いかけてきた真行寺。
大学を卒業する頃には互いに忙しくなってきていたから、そうそう会える事もできなくなっていた。
だから、できるだけ負担の少ない距離にあるワンルームマンションを薦めた。
会いたくなったら何時でも会える距離にいて欲しかったから。
「目の届くところにおいておかないと、悪さされたら俺が困るだろ」
あの時の言葉を、真行寺がどんな風にとったかは判らないけれど。
そうして、何時でも会えるからと高をくくって、忙しさを理由に会う時間を特に作る事をしなかった。
電話一本で会えたあの頃は、恵まれていただけなのかもしれない。
その事を判ろうともしなかった。
今にして思うのは。
真行寺が俺に合わせて、無理をしていてくれたから。
いつも俺の我儘につき合わせていてくれたから。
苛つくままに辛く当っていたことも。
スペインへ向かう前夜に呼びつけて、我慢が出来ない気持ちのままに真行寺を煽るだけ煽って抱き合った事も。
向かわせた後、心にあいた穴を塞ぎたくて女を抱いた。満たされる事は一度もなかったのに、何度も。ずるずると続けている女との関係も、今はその意味すらなくなっている。
終わらせよう。
欲しい物はたった一つだけなのに。
それを自分は手離した。
絵葉書に書かれている文字を、もう一度見つめる。
借りは返した。もう充分だろう。
――― 決めた
「俺が行く。帰って来いってお前に言ってやる。だから、待ってろ」
決心がついたら、先程までの胸の痛みが消えている。身体の方がなんて正直なんだろう。
キーボードに向かい、手短に用件だけを記し、若林教授に返信した。
――― あ…
借りは返した。
ならば、貸したものをこの際だから纏めて返してもらうのも悪くない。
三洲は、机の上のポストカードケースを開け、その中の束を手に取ると、目的のものを探した。
確か、少し前に届いていたはず。捨てていなかったら。
「あった、これだ」
『私立祠堂学院高等学校 第○○期卒業生 同窓会』
そこに書かれてある幹事を務める矢倉の携帯電話に、逸る気持ちを抑えるように電話をかけた。
このお話は『真夜中のうたた寝』の櫻井 香(kou)様が書かれました「アルテミス」の優希の”勝手に続きバージョン”なのです^^;
「アルテミス」を読み終えた後、ある場面が頭から離れてくれなくて、勢いのままに書いてしまいました。
『2』で終わる予定です。…のつもりでしたが、番外編と言う名の『3』に続きます^^;
6月21日〜7月2日