小さな海 -4- 完



 苦い記憶が蘇る。すでに忘れていたと思っていた。なのに、こうして今でもはっきりと見せ付けられる様に。単に、心の底に眠っていただけだった事を思い知る。
 たかがキスだと、そう簡単に切り捨てられないのは、それほどに真行寺の事を想っていたからだ。口ではそうではないと言い、自身でさえもそこまでと思っていなくても、気付かないうちに、心深く、大切に想っていた。それ故に、守るためとは言え、他の誰かと関係を持った事への後ろめたさは、小さな傷として残っていたのだ。消えずに。目立たないだけで。

 三洲は眩暈にも似た感覚を覚えた。

「昔の事、思い出した?」
「…ええ」
「真行寺とは、うまくいってるんだ」
「先輩はいったい…」

 あの時の事を真行寺に話してはいない。
 卒業式を終えた後、目の前にいる男は現れなかった。ずいぶん探したが、進級した後も見かけることはなかった。卒業していったのだと、自分に言い聞かせた。一抹の不安がなかったと言えば嘘になるけれど、余計な波風を立てる必要もないと思った。うやむやのままでも、本音の本心は真行寺にあるし、伝えなくても身体の繋がりさえあれば良いとも。

「気になる?もう、昔の事なのに?」
「気になりますね…」
「種明かしをしても良い頃かな。俺は君の先輩じゃない。制服は借り物。本当の名前は―――市川だ」
「市川、先輩」

 悪意のない悪戯が見つかった時のように男は、はにかみながら続けた。

「教育実習で祠堂にいただけだよ」
「それじゃあ…」
「一年生を、真行寺達のクラスを担当してたんだよ。流石の生徒会長も、そこまでは調べなかったんだな」
「そう、だったんですね」

 市川と言うこの男は、あの頃は大学生だったのか。祠堂の制服を着ていれば、三年生に見えても不思議はないだろう。

「本来なら二学期の後半だけだったけれど、祠堂での実習生活が楽しくてね。大学に申し出て、祠堂からも許可をもらって、三学期もやらせてもらえてたってこと」

 おかげで楽しめたと男は言った。
 一年生達の階に、当時空き部屋があって、全寮制で生活している生徒達に馴染みたいとの意向で、そこを使わせてもらっていたと。制服は、卒業生が残して言ったものを借りていたらしい。

「ある晩にね、眠れなくて廊下を歩いてたんだ。その時に、偶然見たって訳。三洲からは、多分、月明かりが逆光になっていて見えなかったんだと思うよ。で、部屋から君が出て行った後、暫くしたら真行寺が出てきた。それだけならどうってことないけれど、真行寺の事は、授業で教えている時から気に入っていたし、よく見てたから。真行寺は、君の事を良く見ていたね」

 君も、真行寺を見ていたね。

 初めて聞く市川の優しい声だった。背中の冷たさがが、すっと消えていくような声音。
 全寮制と言う閉ざされた空間の中で、密やかに交わされていた関係に、市川はただ興味を持っただけだという。
 苦さはあるものの、別の見方をすれば、市川の行動によって、真行寺への想いが不確かなものから確かなものへと変わっていた事を教えられたと言うことだろうか。
 真行寺に与えていた”弱み”と言う繋がりは、あの頃の自信のなさの裏返しのようなものだった。その事を当の真行寺がどう思っていたかは、思い至った事がなかったというのが正直なところだ。あの時の、市川から強制的に与えられた”弱み”があったから、今こうして真行寺の気持ちを思い返してみる事が出来る。
 切なさが込み上げてきた。どうしようもないほどに。

「そんな顔しなくても良いのに」
「……」
「真行寺も君も、とても純だね。きれいな気持ちだと思うよ」
「真行寺は、ですね…」
「君もだよ」
「そうでしょうか…」
「好きなんだろ」
「ええ」

 十代の想いはまだ幼すぎて、傷付けあっていることさえ気づかないのかもしれない。それはきっと、お互いを見ているようで、実は自分だけしか見えていなかったからだろう。

「じゃ、時間がないから行くよ」
「もう会う事はないですね」
「もちろん。元気で、三洲」
「…はい」


 市川は笑みを残して、地下鉄乗り場へと向かっていった。その背中を見つめ三洲は、一つ大きなため息をついた。ずいぶん緊張していたのだろう。苦笑いが浮かぶ。

 ふと思い出して、腕時計で時間を確認した。真行寺と約束した時間はとうに過ぎていた。携帯も見てみたが、着信はなかった。
 顔を上げて、行き交う人波の中を探してみる。

 真行寺はできない約束はしない人間である。遅れるなら連絡をいれるだろう。そういう部分はきっちりしているはずなのに、どうして今夜だけ何もないのだろう。
 苦い記憶とともに、祠堂の頃の真行寺の気持ちを思い、切なくなったから。
 訳のわからない不安に、どうしようもないほどの想いが込み上げてくる。

 早くと、祈りながら振り向いた時、向こうの階段を下りてくる人の中に真行寺を見つけた。髪が乱れて、上着の釦が外されている。走ってきたのだろう事が見て取れる。
 こちらに気がつくと、大きく手を振ってきた。満面の笑みと一緒に。

「大の大人が…恥ずかしい奴…」

 ぽつんと零れた。自分でも判るほどに、もう不安な声音ではなかった。

「アラタさん、ごめんね〜、遅くなって」

 息せき切って来た真行寺は、そう言って頭を掻いた。

「お前なぁ、遅れるなら連絡くらいしろよ」
「すんません〜」
「心配するだろ」
「ごめん、アラタさん。帰り際に用事頼まれちゃって…。遅れるって思ったら、連絡入れるより先に走ってた、俺」
「事故にでもあったのかと…」
「ごめん、ごめんなさい〜」
「いいよ、もう。それより、腹、空いてるだろ?」
「うん、もうダメ。ヘロヘロになりそう」
「さ、行こう。俺もだから」
「会社の人から美味しい店を教えてもらったんですよ。そこに行きましょ」

 真行寺に促されて、並んで歩きだした。

「待ってる間、本でも読んでました?」
「いいや、ぼーっと人波を見てたよ」
「アラタさんってば、珍しいね」
「ぼーっと、昔の事、思い出してた」
「昔の事?昔の俺の事とか?アラタさんの事、追いかけまくってたもんね」

 隣を歩いている真行寺の声には、懐かしさが滲んでいる。
 柔らかく、落ち着いた声音。

「祠堂に入った頃って、アラタさん追いかけるのに一生懸命だったなぁ。あの頃って、今みたいに、こんな風に並んで歩けるなんて思ってもいなかったっすよ」
「俺もだよ」

 苦い記憶の事を真行寺に話す機会は、この先も訪れる事はないと三洲は思った。
 それで良いのだと思う。全てを打ち明ける必要はないのだと。自分自身が、忘れずに覚えていれば良いのだ。そのかわり、精一杯の想いを真行寺に伝えていければいいと思う。


 真行寺の手に、手をそっと触れさせて。
 隣にいてくれる事に、ただただ感謝を。


真行寺×三洲+オリキャラ
8月31日