言の葉 -3-

 見慣れない靴が誰のものなのかすぐに察しがついたが、藤真がそこまでの行動をとるとは思ってもいなかった。
 酔いは一瞬にして覚めた。生唾をごくりと飲み込み、靴を脱いであがる。
 ほろ酔い加減で良い気分のままアパートに辿りつくと明りがついていて、ほんの少しの間だったけれど心の中にも明りが灯っていたが、今は欠片さえない。
 喉の渇きを覚えてそのままキッチンに向かうと、藤真が部屋から出てくるのが見えた。
 コップを手に取ったまま振り返ると、腰にバスタオルを巻いただけの姿の藤真と目が合った。
 驚く素振りも何も見せずに、けれど気分は良いらしく、晒した素肌もほんのり紅味を帯びていた。
「なんだ帰ってたのか。遅かったよな、珍しいね」
「ああ、ただいま。ちょっとね、誘われて…」
「そう。それより、ああ喉渇いた」
 横に来て冷蔵庫を開けて缶ビールを出している。屈んだ時に見えた項に紅い痕が幾つも付いていて、つい目を逸らす。いけないものを見てしまったようで、苦いものが込み上げてくる。初めて、苦しいと思った。
 こんなにもはっきりと他人との情事の跡を見せられる事になるとは、正直考えたこともなかった。いつも素振りだけで、見つけたとしても察していれば良かっただけの事が、目の前に鮮やかに印されている。目にしたくなかった現実が、本当に色鮮やかに心の奥底に飛び込んでくる。ふつふつと湧き上がってくるものに眩暈さえ覚えてしまう。何がしたいのか。これ以上自分に何をさせたいのか。
 しかし、藤真はそんな事すら気にしていないのか、いつもよりも明るい声で、
「今さ、牧が…」
「判ってる」
 震えないで言えた事に感謝しよう。
「そ」
 振り返りながら身体を起こす藤真の口元は笑っている。見ていたくない顔だ。
「眠いから、おやすみ」
「ん」
 コップに水を注いで一気に飲み干すと、藤真の気配を背中に感じながら自分の部屋へと入っていった。
 その時、藤真がどんな表情をしていたか知る由もなかった。


「なんにも…ほんとに何にも言わないのな、お前は…」
 背中を流れる汗が冷たくなっていくのを感じる。思わずぶるっと震えた。
 結局、花形は二言三言言っただけで、それ以上は何も言ってこなかった。こんな姿を見せては何も言えないだろうとは思うものの、何かしらの反応が欲しかったのが偽らざる気持ちだ。
 衝動的だったとは言え、牧を二人だけの住まいに招きいれたのは、花形と言う想い人がいながら他の男に抱かれていることを花形自身にもう隠すことなく知らしめるであった。多分気が付いているだろうに何も言ってこないのなら、目の前に晒し、せめて顔を顰めて不愉快だと、こんな事は嫌だと目に見える形での反応が欲しかったのだ。真綿で首を絞められているような不快感も併せ持つ罪悪感にはもう耐えられないから。
 心が、悲鳴を上げ始めている。

「藤真、まだか」
 牧の声に我に返り、
「すぐ行くから、ちょっと待って」

 どうしたら良い?
 どうしたら花形は、自分を見て言葉を投げかけてくれるのだろう。
 どうしたら…。

「藤真…」
「行くよ」
 牧の待つ部屋に入って背中でドアを閉める。牧に持ってきた缶ビールを投げて、そっと隣を窺う。壁一枚隔てた向こうには花形がいる。
「なんだよ、そんな顔して」
「ん?」
 缶ビールを一気に飲み干して、缶を捨てながら口元は笑っている。
「花形、帰ってきたんだろ。良いのか?」
「何が?」
 ベッドまで歩いて、胡坐をかいて座っている牧を見下ろす。
「続きをしても良いんだな」
「ふん、そんな事」
「声なんて出せないぞ。隣にいるんだろ。それとも、聞かせたいか」
「……」
「またそんな顔をする」
「どんな顔だよ」
 牧がにやりと笑う。
「今にも泣きそうな顔して」
 心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。
 泣きそうな?
 誰が?
「そんな顔するかよ、ばかばかしい」
 ベッドに腰をかけて、ふんと笑い飛ばした時、腕を引っ張られた。予期していなかったので、そのまま牧にの胸に抱かれる形になり、顎を強く掴まれた。そして、唇に強く唇を押し当てられた。
 突然のことで抵抗する間もなかった。腕をとられ抱かれている無理な体勢ではあったが、なんとか逃れようと突っぱねるが、牧の力はその上を行っていた。
 押し付けられた唇を無理にこじ開けようと舌を使われる。
 キスは嫌だ。誰ともしたくない。ましてや舌を絡み合わせるなんてできる訳がない。聖域なのだ。たったひとつの。

「っくっ!」
 ほんの一瞬の隙に唇を噛んでやった。動悸のする胸を手で押さえ、肩で息をしながら、
「なにっ、何すんだよっ。キスは嫌だってあれほど言ってるだろっ」
 牧は唇の切れた痕を手の甲で擦っている。目が笑っているのが癪に障る。
「そんな声出したら聞こえるだろ。良いのか」
「牧っ…」
「まったく…扱いにくいじゃじゃ馬だな藤真は」
「どう言う意味だよ、それは…」
「もうどれくらいの付き合いだと思ってる? そんなに鈍感でもないからな、俺は」
 それだけを言うと、牧はベッドから降りて散らかった服の中から自分のものを探し出して、身に着け始めた。
「帰るのか、もう終電すぎてる…」
「帰る手立てはいくらでもあるさ」
 牧が帰ってしまう。ベッドに一人残され、花形と同じ家の中で、息を殺していなければいけない空間に放り出されてしまう。
 それでもなす術もなく。
 ドアを開けた牧が振り返り、
「いい事教えてやろう」
「え…」
「多分、藤真は気が付いてないと思うから。お前、入れられてイく時、殆ど意識が飛んでるから知らないだろうけど。あの時、いつも誰の名前を呼んでると思う?」
「誰って…」
「いつも、花形って呼んでるんだよ、お前は」
 また、どんと胸に衝撃を受けた。痛みがしみしみと広がっていく。
 そんなはずはない。そんな事があるはがない。
「そんな……」
「自覚がないのも考えものだな。お前の逃げ場所にばかりなってられないんだよ。じゃな」
 ドアを閉めて、牧が見えなくなった。追いかけることもできない。

 逃げるために牧に抱かれていたのだと、そう言っていた。無意識に花形の名前を呼んでいたとも。その両方ともまったく自覚がない事だった。
 牧との事は、勝てない己のコンプレックスがそうさせたと思っていた。抱かせてやっていたはずだ。
 目を閉じる。玄関の扉が閉まる音が聞こえた。
――― 鍵を…かけなきゃ…
 けれど、ベッドの上から動くことができない。

 どうして逃げなければいけないのか。そうしなければいけなかったのか。
 目を開けて壁を見つめた。その向こうにいる花形に想いを馳せた。
 いつからか言葉を、きちんとした言葉を交わさなくなっていった。肝心な事には目を瞑り、言いたい事も言い出せず。息の詰まるような空間にふたりともいたのだろう。きっと、今もいるのだ。
 抱かせてやっているだけと思っていたことが、実は花形とのふたりきりの神経の張り詰めた空気の中には居られなくて、何も考えずにすむ牧に確かに逃げていたのかもしれない。本当に、心から好きだと言えるから、自分のしている事への後ろめたさも手伝って、花形と目も合わせられなくなっていったのだろう。そんな関係になっていった事を、自分は花形が何も言ってくれないからだと、心のどこかに真実を隠しながら責めていたのだとおもう。

 座っている足元に目を移せば、シーツが濡れているのに気が付いた。
 慌てて頬を拭い、初めて泣いているのだと気づく。瞬きを繰り返し、けれど、何から先に考えたらいいのか判らなくて、また動悸がし始めてきた。小さく震え始めた身体を何とかしたくて、急いで部屋から出て、風呂場に駆け込んだ。
 シャワーコックを捻り、熱い目の湯を頭から浴びる。流れる湯に混じって涙が後から後から溢れてくるのが判る。
 自分は、本当はどうしたいのだろう。



 玄関の扉の閉まる音で目が覚めた。
 と言うよりも、夢から覚めたと言った方があっているかもしれない。それは同時に感じたことだったから。
 激しい飛沫を上げながら、暗闇の中を真っ逆さまに落ちていっていた。何とか手を上げて、叫ぼうとした時に玄関の閉まる音と相まって目が覚めたのだ。
 横になっていたソファーベッドに起き上がり、ため息をついて額を拭うと、汗をびっしりとかいていた。それもそうだろうと思う。
 いつか見た藤真の背中に散りばめたようについていた紅い跡を思い出す。さっき見た項についていた紅い跡も。
 どうして。どうしてそんなに見せたがるのか。
 両膝の上できつく握り拳をつくる。深い息を吐いて、溢れ出そうとしている暗い感情を押しとどめるために、また深い息を吐く。身体が震える。
 じっとしていられなくて、部屋から出てキッチンに行くが、何もするあてもなく、仕方なくトイレに入った。
 微かにシャワーの音が聞こえているのは、藤真が入っているからだろうか。
 ああ、でも、今は藤真の事は考えたくない。そうでなければ―――。
 
 トイレからでて洗面所の前を通りかかった時、風呂場から出てきた藤真と危うくぶつかりそうになった。
「あ…」
「花形…」
 手にバスタオルを持ったままで素肌を晒している藤真を、何故か今は目を離すことができずにじっと見つめている。
 もうずっとこの身体を抱いていない。それなのに、鎖骨の辺りにも胸の辺りにも情事の跡が残る身体。白い肌が湯に当たったせいでほんのり赤みを帯びた肌になって、さらに紅い跡が鮮明になっている。それをじっと見つめる。
「はな…がた?」
 何も言わずじっと見つめる自分を不審にでも思ったのか、その声音は震えていた。寒さなどではないことは目を見れば判る。怯えているだけだ。
 どうして藤真が震えなければいけない。震えが止まらないのは。どうしても溢れ出そうとしている感情に押されそうになってしまって、身体の震えが止まらないのは自分なのに。ずっと理不尽な思いをさせられてきた自分なのに。
 どうして藤真が震えているのだ。しかも怯えてまで。

 何かが心の中で弾けた気がした。
 次の瞬間には藤真の腕をとり、引っ張って歩き始める。身体がまだ濡れていることなど関係ない。今はただ、何もかもが腹立たしいだけだ。
「花形っ」
 叫ぶ声は聞こえたが、聞かぬ振りでそのまま藤真の部屋のドアを乱暴に開けると、壁際に置かれているベッドに藤真を投げ出した。
 ベッドの軋む音と藤真の顔が強張るのが同時に見え、もう溢れ出し始めた感情はとどまる事を知らぬように、藤真に向かっていった。
「いったいっ…、どこまでバカにすれば気が済むんだよっっ。言えよ藤真っ。そんなに嫌いになっていたのなら、何故言わなかったっ。藤真ぁっっっ」
「はなっ……まっ…」
 急いで着ていたものを脱ぎ、藤真の上に跨る。藤真の顔のよこを両手で挟み、多分、自分は酷い顔をしている。
「俺は……俺は、ずっとお前だけ…、藤真だけを…」
「花…がた…」
 藤真の顎をぐっと掴み、唇に自分のそれを押し当てた。強引に舌を滑り込ませ、逃げようとする藤真の舌に絡ませ、強く吸い上げた。
 甘い藤真の匂いに鼻腔をくすぐられ、目も眩むような快感が背中を駆け上がった。


 もうとまらない。誰にもとめる事はできない。
 
 
 
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