それは海の深さにも似て -3-

 やっと、藤真が見つかった。

 今朝早く、藤真の実家から戻ってきたところに、牧から連絡が入った。
 牧のところに居ると言う。

 大学での用事が長引き、家に戻った時には、藤真は、姿を消していた。
 藤真の実家とを往復しながら心当たりを探してはいるが、中々見つからず、バスケ部の方へは、しばらく休むと連絡を入れていたのを聞くと、以前から計画を立てていたらしい。

 何となく様子がおかしいと気がついてはいたが、それを確かめる事はしなかった。 何事も一生懸命な藤真は、悩み事がおきても、すぐに打ち明ける事はしない。 藤真自身が、話をする気になるのを待っている。それが、よくなかった。今となっては、後の祭でしかないが。

 探し始めた時、牧にも連絡を取ったのだが、留守と言う一言で、それきりになっていたのだ。
 待ち合わせに指定された喫茶店についたのは昼前だった。 牧の住んでいるマンションに近いらしい。
 店の奥まったところにある席についている牧を見つけ、その前の席に座ろうとした時、牧の顔に傷があるのに気がついた。
「どうしたんだ、牧、その顔の傷は?」
 アイスコーヒーを頼み、また、牧の顔の傷をみるが、
「あぁ、これは…、後で話す」
「牧、藤真のことが聞きたい。あいつ、どうしてる?」
 何かを少し考えている風な牧だったが、
「俺のところに居る。心配ない。それより、聞きたいのは俺の方だ。いったい藤真と何があった?お前達、上手くいってたんじゃなかったのか? それとな、花形…」
 言いにくそうにしている牧から聞いたそれは、
「花形、俺は藤真を抱いた」

 音が消える。

「言い訳する訳じゃないが、誘われた。いったい、藤真と何があった?」
「…そうか…」
「それだけか? 」
 花形の静けさが、牧には理解できい。
「牧…」
「なんだ?」
「牧から誘ったんじゃないだろ、藤真が誘ったんだろ?」
「それはそうだが…」
「本気なんだと思う、藤真は」
 牧の言葉は花形にとっては衝撃的なものである事に違いなかったが、ある意味、納得できるものでもあった。 藤真が、遊びで肌を重ねられる人間ではない事は、自分が一番よく知っている。
 藤真が本気であると言う事に他ならない。
 何に?
 自分と離れるため?

 俯き加減に話す花形の表情は、メガネのせいもあって判りにくかったが、声は落ちついている。そう聞こえるだけかもしれないが。
「それより、牧のその傷は?」
「これは…、ここに来る前に仙道に会いに行ったんだよ」
「仙道に?」
「ああ。 最初に話さなきゃならんと思ったんだよ、仙道には。手加減なしだったけどな」
 意味が分からないと言う花形に、
「あ〜と、花形は、知らなかったな。 俺は今、仙道と付き合ってる」
「そうか…。俺達、迷惑かけまくってるんだな…」
 自嘲気味に話す花形に言いたい事もあったが、とにかく藤真の事が知りたい。
 花形が話し出すのを待つ。

「何から話したら良いだろう。 実は、俺にも本当のところの理由は分からないんだよ」
 静かに話はじめた花形は、この男なりにこの何日間を過ごしてきたのだろう。
「藤真が飛び出したままで、話しなんてなかったから。 何も、残してなかったからね」
 藤真が自分に何も残さず出て行ったと言う事に、花形は、思った以上にショックを受けていた。

「これは、多分そうなんだろうと考えているだけの事なんだけど。
 5月の連休に実家へ帰ったんだよ。 藤真は、部の方とかあったから、後半に俺の家に来て。その後からかな、ぼんやりしている事が多くなって。 考え事している事も多くなっていって。少し変だとは思っていたんだけど、俺達の付き合いの中では、藤真から話してくれるのを待つ、て言うか。 何かあったとしても、藤真から話すのを待っていたんだ。 だから…」

 藤真と自分は、誰よりも近い場所に居る。 何でも分かり合えていると思っていた。 特別に話し合わなければならないような関係ではないと、何処かでタカを括って関わることをしなかった。
 藤真と今のような関係になる前は、側に居るために、彼を理解しようと積極的に藤真に関わっていたのに。 側に居る事に安心して、結局は何もしなかったのだ。
 どんなに悩んで、どんなに思いつめていたか…。
 最後に顔を合わせた朝の穏やかだった笑顔を思い出すたびに、叫び出しそうな程に悔しさが込み上げてくる。

「呑気だな、花形、お前は」
「そうだな」
「それから」と、牧は、先を促した。
「藤真が飛び出したのは、多分、俺と別れるつもりからだと思うんだが、その理由が単に別れたいってだけじゃ、俺は納得しない。 あいつに、他に好きな人ができたのなら…、行動を起こす順番が違う。 だから…、理由を作って、俺に言うつもりだったんじゃないかと思う」
「それが、俺か?」
「多分。 俺達は、そんなに簡単に別れられる付き合いではなかったから。先の事とかで何か話すとか、決めた事はないんだ。そんな事が言える年じゃないから。 ただ、ずっと一緒に居るって事は言ってる」
「ずいぶん深い付き合いをしてるんだな」
「あぁ、まあな。牧は、藤真の家の事は知ってるか?」
「いや」
「藤真はおふくろさんを早くに亡くして、おやじさんと二人きりなんだけど、殆ど出張とかで家にはいない。だから、藤真は、殆ど一人で過ごしてきてる。おやじさんはいるけれど、藤真はいつもひとりだ。だから、家族をすごく欲しがる。大事にしろって、それは煩いくらいに言う」

 花形が話してくれた事は、牧の知らない藤真だった。 自分が藤真について知っている事は、ほんの一部分でしかなかった。 藤真との距離を思い知らされる。

「牧、藤真に会えるか?」
「会わなきゃダメだろ」
「それから、牧。俺は、もうすぐ交換留学の推薦を受けて、渡米するんだよ」
「何時っ?」
 さすがに、これには驚いてしまった。
「できるだけ早く…と言われている」
「藤真は…、あいつの事はどうする?」
「連れて行きたいと思ってる。 え〜と、これは取り合えずなんだけれどね。 全然会えずで、話しもなにもできてないから。 だから、兎に角、藤真に会いたい」




 牧の住んでいる部屋のドアの前まできた。 やっと、藤真に会える。
 インターホンを鳴らして待っていると、ドアが開いて声が聞こえた。
「はい?」
 思いきりドアノブを引いてドアを開ける。 藤真がいた。
「藤真っ」
「はなが…た…」
 花形の顔を見とめた藤真は、後ずさり逃げ出そうとしたが、花形が腕を掴む方が早かった。
 そのまま藤真を抱きしめる。 
「藤真…、どれだけ心配したか…」
「は…ながた…」
 花形に抱きしめられたまま、動けない。
 息を吸い込めば彼の匂いがする。抱きしめられた腕から、身体から、彼の体温が伝わってくる。
 けれど、花形の背中に腕を回したい衝動に耐えるしかなかった。 回してしまえば、花形を思って離れようとした事が、すべて無駄になってしまう。 だから…、こうするしかなかった。
 両手で花形の身体を突き放す。
「離せよ、花形」
「藤真…。 心配したよ」
「牧が知らせたのか。だけど、花形、お前、よくこんな所までのこのこやってくるな。 牧ン家だぜ、ここは」
「知ってるよ、そんな事」
 冷たく睨み付けてくる藤真の視線を言葉を受け止める。一つも見逃さないように。
「藤真、理由が知りたい。どうして、家を出た? 俺との事をどうにかしかったのか?」
「別れたい」
 この時のために用意していた言葉を突き付ける。
「理由は?」
「疲れた、それだけだ」


「疲れたんだよ、お前と付き合うのは、もう。 花形は、もう、ずっと“お前のため”お前の為って言って、俺を縛ってきた。 疲れたんだ。考えてくれた事ある? そういうのが重荷になるってことに。 いつもいつも、俺の言う事は聞いてはくれたさ。 言うとおりにしてくれてたさ、お前は。 だけどさ、それって、全部俺に押し付けてただけじゃないか。 俺に、お前の人生まで背負わせて。  お前は、思いやりとか何とか言うかも知れないけど、そんな、押しつけられた思いやりなんて、もう、うんざりなんだよ」

 花形は、時折目を細めるだけで、何も言わずに顔色一つ変えずに、黙って聞いているだけだ。
 何を考えている? 頼むから、俺の言ったことに頷いて。
「触るなよ」
 腕を伸ばし髪に触れてくる花形の手を払いのける。
「他には?」
「それだけだ。お前とは、もう終わりにしたい。俺は、俺の事を一番に考えてくれる奴がいい」
「それが、牧か」
「そうだ」
「どうして…」
 全ての爪を傷つけるためだけに研ぎすまし身構えている。
 触れようとすれば離れていく、追い駆ける程に逃げていく。
 どうすれば引き寄せられる? どうすれば引きとめられる?

「藤真の…言うとおりかもしれないな 」
 花形の言葉に少しホッとする。 これ以上、傷つける言葉を言いたくはなかった。 
「藤真、よく聞いて。俺に交換留学の話しがきてたのは覚えてるか」
「あぁ…」
「行く事に決めたよ」
「え?」
「時間がなかったから、すぐに返事をしなきゃならなかったんだよ。だから…」
 花形が、遠くへ行く?
「俺が居なくなるんだから、もう逃げる必要なんかないだろ。 話しをしておかないといけない事があるから、帰ろう藤真」
「そりゃ、助かるな。 お前が行ってしまえば帰るさ」
「俺と一緒には帰れないか?」
「帰れないね」
 藤真から伝わってくるのは、離れると決めた哀しさだ。何を言ってやればいい?
 離れてやる事しか自分にはできないのだろうか。
「わかった」 
 言いたい事はあるけれど、今は藤真に何を言っても無理だと判断した。
 それ以上は何も言わずに帰ろうとする花形の後ろ姿に 駆け寄りたい気持ちを押さえる。

 ドアが閉まる。
 終わった。
 これで。
 花形…。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



 受話器をとり、番号をプッシュするが途中で止める。また、番号をプッシュして、止める。
 声が聞きたい。聞けば会いたくなる。会えば、きっと触れたくなる。それなのに、残る想いに揺れながら傷つけてばかりだ。我が侭だと分かっていても、手を離せないでいる。

 また番号をプッシュする。 声が聞きたい気持ちには逆らえない。
『はい…』
「仙道か」
『あ…、牧さん…』
「仙道、今朝はすまなかったな。あんな話、聞かせて」
『……』
「俺は…、黙ってる事もできたんだろうがな、だけど、誰かから伝わる事があるくらいだったら自分の口からと思ったんだよ」
『牧さん…』
「甘えてるな、俺は。今、何してる?」
『牧さんと電話してます』
 受話器の向こうで、少し笑った仙道の声が聞こえる。

 仙道が傷つく事が分かっているのに、藤真との事を話したのは、してしまったことをなかった事にできないのならばと、曝け出す方を選んだ。 例え、誘われたのだとしても、残っていた想いがあった事は否定できない。 それでも、仙道には知っていて欲しかった。

『牧さん、あの、藤真さんは?』
「うん…、藤真達は、交渉決裂だ。花形は、もうすぐ日本を離れるって言うし。藤真は、倒れるし。厄介なヤツラだよ、全く…」
『そう…ですね』
「ほんとにな…」


 花形が帰った後、もう、傍観者の立場は取っていられないと、藤真に問いただした。
 これ以上縛り付けてしまわないように離れる事を決めたと、すべては花形のために、ただただ、その一心でした事なのだと言う。
「俺には、あいつ以上に大事なものはないんだよ。 花形だけなんだ。」
「いい加減にしろ、藤真っ。 俺がOKしたら、どうするつもりだった、お前は? あんな形で俺に抱かれてたって、花形の名前を呼ぶくらいに好きなのに。 そんなに思い詰める程に想っているのに、どうして一緒にいる事を選ばない?」
「何も知らなかった時なら迷わず選べたさ。 だけど、気がついたんだよ。 花形は俺だけのものじゃないって。花形は、あいつの家族のものでもあるんだよ」
「藤真っ」
「牧にも分かる時がくる。 きっと来る」
「藤真…」
「俺の為に、あいつに捨てさせるなんて、できないんだよ」
 そう言いきった藤真は、花形と会った事で緊張の糸がきれたのか、その場に崩れるようにして倒れてしまった。


『牧さん、俺、そっちに行きましょうか? それか、こっちに来ます?』
「いや、もう遅いから。声だけでいいから、聞きたい。大事な時なのにな、お前…」
『牧さん…』
 物分かりのいい自分が、時々嫌になる事がある。
 何も気づかずにいればよいものを、どうして気がついてしまうんだろう。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



「透、用意が出来てるなら、もう出るか?」
「あ…と、もう少しだけ待ってくれる?」

 後少しで、この部屋を、日本を離れる。 藤真の事が中途半端なままだが、仕方がない。
 自分が動けば必ず藤真も動く。 ここまでくれば、もうそれを信じるしかない。
 花形は、藤真が戻ってきた時の為にと、卒業アルバムに手紙を挟むことにした。そうして、藤真が一番見つけやすい場所へ置く。
 多分、普通の手紙なら藤真は読まないかもしれない。でも、これなら……。

 去りがたい想いで、置いたばかりのそれを見ていた時、玄関先で声が聞こえる。
 今頃、訪ねてくる人もいないだろうとも思うのだが、それでもと玄関へ行くと、父親の向こうに見知った顔を見つけた。

 仙道は、じっとしていることができず、牧から教えてらった住所を頼りに、花形を訪ねていた。
 やっと見つけた部屋の前に立ち、インターホンを鳴らそうとした時、ドアが開いた。
「あ、すいません」
 中から顔をだした人に声をかける。40代くらいの男性だ。花形の父親だろうか。
「どちら様です?」
「仙道と言います。あの、花形さんは?」
「仙道…」
 後ろの方から、ひょいと顔を出したのは、花形だった。
「親父、先に下に行っててくれる?」
「じゃあ、遅くならないように。 先に行ってるから」
 花形の父親に軽く会釈をし、時間があまりないと言う花形に詫びながら、部屋へ上がらせてもらった。玄関先には、トランクが置いてある。

「もう、出かけなきゃいけないから、何も出せないけれど、何だろう?」
「花形さん、単刀直入に言います。 牧さんから藤真さんを離して下さい」
 今の花形には、真っ直ぐに自分の気持ちをぶつけてくる仙道が眩しく見える。
 自分も、こんな風に真っ直ぐに向かっていける事ができたなら、藤真をあんなに悩ませないですんだのかもしれない。
「藤真の事は申し訳ないと思ってる。 でも、今は、俺ではダメなんだよ」
「お願いします、花形さん。 一人で行かないで、藤真さんも連れて行って下さい」
「仙道…」
「花形さん、お願いします…」
 時間を確かめれば、もう出なければいけない時間になっていた。
「申し訳ないけど、もう行かなきゃならないんだ。 空港までの移動の間でよかったら、少しは話しができるけど、どうしよう?」
「一緒に行きます」

 花形の父親が運転する車に同乗させてもらい、成田までついて行く事にしたが、移動の間は、花形の父親の手前もあって、結局何も話すことはできなかった。
 もうすぐ日本を発つ花形に、これ以上何も頼めないことはわかっているのだが、じっとしている事もできない。

 出国ロビーで出発を待っている間に、聞きたかった事を尋ねた。
「花形さんは、平気なんですか? 牧さんと藤真さんが二人きりでいて」
「うん…、藤真にその気がないのは分かってるからね。 それに、牧には藤真の事を頼んであるだけだから、仙道が心配しているような事はないから。 それは、大丈夫だよ。まあ、藤真に逃げられている俺が言っても、説得力はないけれどね」
「藤真さんはそうでも、牧さんが…」

 牧を信じたい気持ちに嘘はないのに、こんなにも不安になるのは、二人が、手を伸ばせば触れあえる距離にいるからだ。
 牧と触れ合わなくなってどれくらいだろうか。自分と牧は、身体を繋げるだけの関係ではないと言いきれるだけの自信がない。

「牧にも、その気はないと思うよ。 確かに、牧の中で藤真の事が終わってなかったのはあるだろうけれど、あの事は牧も後悔している。 牧が自分で言いに行ったんだろ、仙道のところに。
 牧の気持ち、汲んでやってくれないだろうか。仙道には気分の良い話じゃないのは分かるけど」
「花形さん…」
 そう、誰が悪い訳でもなく、もっと自分が早くに気がついていれば、藤真をあんなになるまで、思いつめさせることもなかった。
「俺が居なくなれば、藤真は必ず動くから、もう少し待ってやってほしい。」
 搭乗手続きを促すアナウンスが流れ、花形は手続きをはじめた。
 振り返り、見送ってくれている仙道に、
「大丈夫だよ。 牧はちゃんと君を見てるから」
 その言葉を残して搭乗口へ消えていった。

「花形さん、それでも、俺にはもう自信がないんです」



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 今日一日、仙道と連絡がとれない。 何処にいるのか、何をしているのか。

 夜も9時を回った頃にやっと連絡が入った。
『牧さん、俺です』
「仙道…、今どこに居る? ずっと連絡…」
『下の電話ボックスの所に居ます。 牧さん、出て来れます?』
「ああ、すぐ行くから、待ってろ」
 何故上がってこない? どうして、呼び出す必要がある?
 胸騒ぎを感じながらも、早く仙道に逢いたくて、指定された場所へ急ぐ。

「牧さん」
 マンションの横にある電話ボックスのところに仙道はいた。
「仙道…」
 走り寄ろうとした時、
「それ以上近づかないで、下さい」
 近づいてくる牧に、腕を上げて静止する。
 これ以上…もう、近づかないでほしい。
「仙道、今日はずっと何処へ行ってた? ずっと電話して…」
「牧さん。 花形さん、行ってしまいましたよ」
「おまえ、空港に行ってたのか?」
「ええ。 それより、手を出してください」
 牧は、言われたまま手を差し出した。 そこへ、仙道が何かを置いた。

 空港からの帰り道、ずっと考えていた事。
 牧にとって自分の存在は一体なんなのだろうか。
 牧は、藤真を想っていた。 それでも、目の前に居る自分を選んだはずだ。 二人の関係が始まった時は、自分だけを見ていてくれたはずなのに。 少しづつ時間をかけて、牧との関わりを大切にしてきたのに。
 けれど、藤真が現れてからは、牧の心が揺れている。 どんなに打ち消しても、その考えに囚われて身動きがとれない。
『牧は、君を見てる』…、花形から言われた言葉も、信じられないでいる。

「これは…、どういう意味だ?」
 仙道から返された鍵に込められている意味は、一つしかない。
「もう、終わらせます」
「仙道、何言って…?」
「牧さんの側には、藤真さんがいる。オレの場所なんて、もうないです。花形さんがいなくなったんです。もう、誰に遠慮することなんてないですよ、牧さん。俺の役目は終わりです。藤真さんの代わりは、これ以上俺にはできない…」

 こんな事を言いたいのではなかった。 牧が藤真の代わりに自分を側に置いたのではない事は分かっている。 分かってはいるが…。

「おまえ、ずっとそんな風に思っていたのか?」

 不安定な状態に置かれていた仙道には、誰の言葉さえも信じられなくなってきている。
 鼻の奥がツンとしてくる。
 牧に会って言いたかった言葉は頭の中をグルグルまわっているだけで出てきてはくれない。
 本当は、牧の心が何処にあるのか確かめたかっただけなのに。
 もしも、自分ではなく、藤真を選んだとしたら。
 終わりの言葉を牧の口から聞くなんてできない。

「牧さんが…、藤真さんだけを見ているのが分かるから、これ以上俺には…」
 夜空を仰いで瞬きを繰り返せば、流れ落ちてくるものがある。
 泣いている自分は滑稽かもしれない。けれど、そんな事はもうどうでもよかった。
「牧さんには…、俺だけを見ていて欲しかった」
 少し震えながら話す仙道の声に含まれる辛さに、何を言ってやればいいのだろう。
「辛いか、仙道」
「…ええ」
「今は藤真の側を離れられない。 だがな、俺が側に居て欲しいと思ったのは、おまえだけだ」
 優しい声。けれど、優しさが今は哀しい。
「もう…、いいです。 さよなら、牧さん」



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 IHへ出かける準備を終わらせ、シャワーを浴びてさっぱりした仙道は、ベッドに横になった。頭に浮かんでくるのは、牧の事ばかりだ。

 何時だって、本気になって追い駆けたものは手に入らない。
 掴んだと思っても、指の隙間から零れ落ちていく。
 そんなくり返しの中で覚えた事は、本気になる前に逃げてしまう事。
 これ以上傷つかないように、自分を守るために必要だった。
 それが…。
 牧と過ごしたこの数ヶ月は、自分でも信じられないくらいに充実していた。
 ずっと続いていくと思える程自惚れていた訳ではないが、大事にはしていた。

 こんな終わりがくるなんて…。




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