not made to language[3]



 教室の後ろのドアからひょいと顔を覗かせた藤真は、花形がいない事を確かめた後、ドアの近くに座っている長谷川に声をかけた。
「一志、花形は?」
 そう問われ、長谷川は、
「え〜と、確か、誰かと当番を代わったはずだ。それ以外の理由なら判らん」
 それでも同じクラスなのかと言いたくなる様な曖昧な理由に拍子抜けした藤真は、空いている椅子にがっくりと座り込んだ。
「どうした? 最近、花形の事、探してばかりだけど」
「まね。話す事が多くてさ。んで、言い忘れる事も多くて」
「大変だな」
「一度、目離すと捕まらないんだよ、あいつ。何処で何やってんだか、ったく…」

 背もたれに背中を預けて伸びをしている藤真が、バスケ部の監督を引き継いだのは半月ほど前のことだった。
 前監督の突然の辞任に際し、後任を探すことに手間取っていた学校側へ、藤真自身が監督を引き受ける事を申し出たのである。
 まだ、主将の引継ぎすらも満足に終わっていない時期だった事と、『学生が監督をする』と言う、翔陽全体を通して初めての事に、先行きの不安を教師達は盛んに訴えたが、藤真の決意の固さに根負けしてしまったかたちで、暫くは様子を見ると言うところに落ち着いたのだった。
 バスケ部自体は、新主将が監督を兼任する事態に浮き足立つ場面もあったが、一緒に副主将を引き継いだ花形の対応が早かった事もあり、今は、平素の運動部としての活動をこなせるまでに落ち着いてきている。
 クラスは違っても一緒にいる事が多かった藤真と花形だったが、藤真が監督を受けてからは、今まで以上に二人が一緒にいるところを見かけるようになり、誰からも見ても、主将と副主将という関係においては完璧な二人になりつつあった。

「練習メニュー作るのだったら、手伝おうか?」
「ああ、それは良いんだ、もう出来てるから。練習終わった後とかで花形とやってるから、そっちの方は心配ないんだ」
「じゃあ、花形に何の用なんだ?」
「用と言うほどの用…じゃないのかもなぁ…」
 煮え切らない藤真の答えに、長谷川は珍しくくすくす笑いながら、
「あんまり花形の尻ばっかり追いかけてると、そのうち愛想つかされるぞ」
 思ってもみなかった言葉をかけられた藤真は、危うく椅子から滑り落ちるところだった。
「ばーか、誰が花形の尻なんか。用があるんだよ」
「だから、何の用だって聞いてるんだ」
「それは…、まぁ、なんていうか、色々とな…」
 相変わらずのらりくらりとした返事しかしない藤真に、必死になって探し出さなければならないような用事があるとは思えない長谷川は、やれやれと言った感じで、「花形も大変だな」と、背の高いクラスメイトに同情してしまう。
 そんな風に言われてしまっては面白くない藤真は、口を尖らせて、
「今日に限ってなんだよ一志は。煩すぎるんじゃないか。言いたいことがあったら―――」
 そう言うなり、お互いにじっと睨み合うのだが、遊んでいるようなしか見えないくらいに緊張感がなく、すぐに二人して吹き出してしまっている。

 ひとしきり笑った後、藤真は思った。長谷川や高野、永野といった他の仲間達と話をするのは楽しい。けれど、そこに花形がいない。たったそれだけで、どうしても物足りなさを感じてしまうのだった。
 そこへ持ってきて、先日、監督を受けてからずっと花形に対して気にかかっている事があった。喉に刺さった小骨のようなそれは、一度気になり始めてしまうと、早く解決させなければならないような類のモノのように思われて仕方がなく、こうして時間が空けば、花形と話をしようと隣のクラスまで来てみるのだが、いつもすれ違ってばかりいる。

 少しの間、長谷川と話した後、また花形を探しに行くからと教室を出て行こうとする藤真の背中に、長谷川から声がかかる。
「廊下は走るなよ」
「判ってますって」
「ほら、走るなって」
 それでも、手を振って教室を飛び出して行った藤真に、長谷川は苦笑いを浮かべるしかなかった。



 図書当番を早めに切り上げさせてもらった花形は、気の置けない仲間やクラスの友人達と離れて屋上へ来ていた。
 誰もいない事を確かめた後、九月の終わりのまだ暑い日ざしを避けるように、すでに指定席のようになっている場所へ座り込んだ。
 普段では無駄に長いと文句ばかりを言われる足を伸ばし、屋上へ来る途中に購買部で買って来たパンを広げる。その中の一つを手にとった時、誰かが来たらしく、ドアを開ける音がした。
「やっぱり、ここにいた」
 その声に振り向いた花形は、
「ああ、藤真か…」
 花形は手を翳し、眩しそうに目を細め、近づいてくる藤真を見つめた。

 花形の隣に同じように座り込んだ藤真は、
「こんなところじゃ、まだ暑いだろうに、何してたんだよ? 飯?」
 ずいぶん走ってきたらしく、少し息が弾んでいる。
「風もあるしな、意外と涼しいよ、ここは。藤真には無理だろうけどな」
「失礼な。夏生まれなの。オレは、暑いのは平気さ」
「そうか…」
「それよりさ、まだ、飯食ってなかったっけ?」
「昼休みは図書当番に当たってたんだ。前に代わってもらってたから、今日はその代わりだ。だから、今から昼飯なんだ」
「当番も大変だよなぁ」
 花形の側に置いてあるパンの一つを取りあげ、了解もとらずに藤真はさくさくと食べ始めた。
 日常茶飯事な出来事に、花形は彼らしい笑みを浮かべ、指についてしまった餡を舐めたり、缶コーヒーも勝手に飲んでいる藤真を見ていた。
「自分の分の金、払えな」
「よろしく、花形くん」
 花形の言う事などいっこうに気にする風でもない藤真は、もう一つと手を伸ばしかけ、
「こらっ、俺の分がなくなるだろ」
 花形の静止にも耳を貸さず、勝手に取ったパンにぱくついていると、すかさず手を叩かれるが、藤真はめげない。
 しかし、花形も文句を言ってばかりでは食べ損ねる恐れがあると思い、空腹感を埋めるためにひたすら食べる事に集中することにした。

 まだ少し蒸し暑い風を受けながら、二人して黙々とパンに噛り付いている。花形は、ここ最近、藤真が監督を受けた事で雑事が増え、こんな風にのんびりとした時間を過ごしていなかった事を思い出していた。
 これから先、どうでも良いような他愛ない事で過ごす時間はもっと減っていくだろう。現に今がそうであるように。部活で過ごす時間も大事であるし、疎かにするつもりはない。ないのだけれど、花形はどうしてもその事に一抹の寂しさを覚えてしまい、どちらも同じくらい大事な事には変わりはないのに、いつの間にか比べてしまっている自分に自己嫌悪してしまうのだった。

 食べ終わった後、藤真はそのままその場に寝転がり、花形は二人の食べた後の後片付けを簡単に済ませて、後ろの壁に凭れた。
 藤真も花形も空腹感が治まり、ぼんやりとしていてた。
 空を見上げれば、うろこ雲が一面に広がっている。聞こえてくるのは、五時間目の体育のために運動場にでている、何処かのクラスの連中の遊んでいる声だけで、どこまでも静かな昼休みで満たされている。
 それなのに、二人を包む静けさには、お互いに聞きたい事や話したい事があるのに、言い出せない、そのきっかけが掴めないと言った、そんなもどかしさが含まれているのが感じられる。

「なあ、ほんとは怒ってるんだろ…」
 最初に口を開いたのは藤真の方だった。今までは、どう切り出せば良いか判らず悩んでばかりいたが、はっきりと聞く事にした。
「何に?」
「監督、受けた事をさ」
「どうして?」
 起き上がった藤真の視線を、やっと正面から受けた花形に、
「花形は、あれからずっとオレと目を合わせない。部活の細かい事とかバスケの事でなら何でも話し合ってるから、他の奴等は気がついてないだろうけど、普段の時は、避けてるだろ。あ、でも、一志は気がついてるかもな」
「違うな」
 やっと藤真と正面から向き合うかと思われても、心の奥までは簡単には見せてくれない。
「じゃあ、何だよ」
「なんでもない」
「嘘だ。花形は、言いたいことがあるのに何も言わない。ずっと機嫌悪いの、オレが判らないとでも思った? オレはねぇ…」
 藤真は、何か言いた気な目を向けてくるのに何も言って来ようとしない花形に、本当に焦れてしまっていた。こうして言い争いでもしなければ何も言ってくれないのなら、もっとぶつかり合っても良いとさえ思っている。
「だから、そうじゃなくて。…多分、藤真が考えてるような事じゃないんだ」
「そんな事判るもんか。花形、そうやって自分の中だけで結論出すなよ」
「出してないよ」
「信じられないね」
「藤真、だから、それは…」
「花形が何にも言わないから…」
 堂々巡りのような応酬が続く中で、花形がもう一度、「だから、そうじゃないんだ」と、少し辛そうに言った時、藤真は、これ以上花形に対して、感情を剥き出しにしたような言葉で責め立てるのは止めることにした。

 花形の肩越しにどこか遠くを見るような瞳で、藤真はぽつぽつと話し始めた。
「花形だけに話すからな。あの後の事なんだけどさ。監督を受けた後の事。オレ、監督を引き受けますって、先生達の前で言った時は、その時は大変とか他の色んな事とか考えもしなかった。後悔もしてない。誰かがやらなきゃならないのは事実だったから、じゃあ、オレがやるって、そう思っただけ。選抜もすぐだから。ただ、あの後、家に帰った後、玄関入って、ドア閉めた途端にさ、急に足が震えだしてきて、止まんなくなったんだよ」
「藤真…」
「足が震えてやんの。可笑しいだろ。とんでもないもの背負い込んじまったんじゃないかって、足が勝手に震えて止まらなくて。あの晩は、結局、ずっと震えてた。でも、もう、決めた事だから。やるって、そう決めたんだ、花形…」
「藤真…」

 かすかに自嘲的な笑みを浮かべてではあるが、誰にも話さなかった事をこうやって吐き出すことで、藤真自身、もう吹っ切れたこととして捉えられるようになりたいと思ったからだった。
 花形には、初めて聞くような弱気な言葉の中に、藤真の本音を見た思いだった。気丈に振舞っているように見えていても、その裏側には儚ない部分も一緒に存在している事に、気がついてやれないでいたのだ。
 それに引き換え、自分の悩んでいる事があまりにも自分勝手な我侭のように思えてしまい、花形は藤真を見ていられなくて、見つめてくる瞳から逃れるように、自分の足元に視線を落とした。

「判ってるよ。藤真が決めた事だから、充分に判ってるつもりだ。ただね、ただ…」
「ただ、何?」
「うん…」
「オレも言った。だから、花形も言って欲しい…」
「そうだな…」
 もう逃げる場所がない事を悟った花形は、少し考えた後、最初で最後だからとでも言うような瞳で藤真を見つめ、話し始めた。
「藤真が監督をする。選手でもあるから兼任する訳だけど、藤真が選手だけじゃなくなるって事が、その事が、どうしてもオレの中で納得できないんだ。オレは、やっとレギュラーになった。自分で言うのも変だけど、ここまで頑張って頑張ってやってきて、副主将と一緒にレギュラーもらって、やっとだ。やっと、やっとお前と一緒に試合に出られるようになったのに。やっと、スタートから出られると思ってたのに。それなのに、お前はベンチの人間になってしまって…」
 ここまで一気に話した花形は、気づかないうちに手を固く握り締めていたらしく、ゆっくりと手を広げながらふぅっと息を吐いた。
「まぁなぁ、監督になる訳だから、スターティングメンバーって訳にはいかないだろな。だけど、選手でもある。兼任だから」
「オレには、お前がずっと目標だったから。やっと追いついたと思ったよ。やっと追いついたはずなのに、お前、また先に行っちまうもんだから。だから…」
「だから?」
 少し首を傾げて問いかけてくる藤真に、花形は少し拗ねたような口調で、
「だから、ちょっとばかり、いじけてたんだよっ」
 やや投げやりにそんな事を言う花形を見て、ようやく胸のうちを聞かせてもらえた藤真は、嬉しさとともくすぐったさも感じていた。花形自身は、ずっと、誰にも言わずに自分の中に溜め込んでいた事を話せた事で、ようやく自己嫌悪から解き放たれた気がした。
「だけど、オレ、先に行っちまった訳じゃないから。今でも同じところに立ってる。それだけは忘れるなよ」
「そうだなぁ…。あれは、きっと、オレのいじいじした気持ちがそう思わせてたんだろうな」
 そんな事をさらっと言う花形に、藤真は堪えきれずに吹き出してしまった。
「そんな大きな形して『いじいじしてました』って言われたって、似合わなねーよ、花形にはさぁ」
「藤真、言っていい事と悪い事があるの知ってたか?」
「知るもんか」

 先に手を出したのがどちらかだったのかは判らない。花形が藤真の腕を掴み、藤真がそれを振り解こうとして身体を引いた拍子に、縺れ合うようにコンクリートの床に転がってしまったのだが、本気でやりあうつもりは毛頭なかった。
 誰にも言えなかった事を話したことで、気が楽になると同時に、心の中を覗かれてしまったような恥ずかしさがお互いの中に少しばかり残っていて、その気持ちに背中を押されるままに取っ組み合いを始めてしまっただけである。
 しばらくして、二人だけの遊びの時間を制したのは花形の方だった。両手首を掴み、組付した姿勢で、身動きできなくて口を尖らせている藤真を静かに見下ろした。
 まだ息の荒い藤真に向かって、
「なぁ、藤真…」
 花形の真摯な声に、口を尖らせながらも笑っていた藤真は、何かを言おうとしている花形を静かに見つめた。
「オレは、もう悩むのは止める。覚悟を決めた」
 その言葉に、藤真の口元が綻ぶ。
「お前一人に、一番重い事を背負わすんだ。だから、この先、何があってもお前だけは潰させない。潰させはしないよ」
 花形の言葉を受けて、藤真が続ける。
「潰れる時は一緒だ、花形」
「そうだな」

 少しの間、そのまま見つめ合っていたのだが、予鈴の音がまるで追い立てるように聞こえてきた。予鈴から五時間目の始業ベルまでは十分しかない。
 花形は起き上がりながら、藤真も起こしてやり、汚れてしまった背中を叩いてやった。
「すまなかったな。こんなつもりじゃなかったのに。これくらいでいけるかな」
「駄目ならジャージにでも着替えるし、心配ないよ」
「じゃ、遅れるから急がないと」
 花形は、食べた後のゴミが入っている紙袋を掴むと、藤真の背中を押して屋上から階下へと降りていった。


 選抜の予選は、すぐそこまで迫っていた。