not made to language[4]



 カリカリと渇いた音を小さく響かせて、シャープペンシルを走らせる。
 時折、その先を伺うように止まっては少し考え込み、また、動き出す。
 合間に聞こえてくるのは、冷たくなってしまったコーヒーを啜る音と、普段の生活にはあまり役にはたっていそうにない長い足を投げ出したまま、気持よさそうに寝ている男の寝息だけ。
 規則正しく聞こえるそれを聞いていると、寝付いてから、まだ、そんなに時間は経っていないはずなのに、よく熟睡していることが覗える。

 疲れているのはお前だけじゃないのにな。なんて野郎なんだか。

 言ってしまいたい衝動を押さえ込み、シャープペンの変わりに手近にあった物差しを取り、足の裏をくすぐってやる。
 何度か擦っているうちに嫌々をするように逃げ出す足先と、ついでに身体の向きを少し変えた彼に、このまま悪戯を続けていてもいいのだけれど、ひとりで起きているのも悔しいので、起こしてしまうことにする。
 小さな笑いを堪えつつ軽く足を蹴って、
「いい加減におきろ、よっ」
「…・・・」
「おいってば、花形。寝過ぎなんじゃないか」
「…んぁ〜…、はいはい、え〜と、なんだっけ?」
 首の後ろをぽりぽりと掻きながら、重い身体をよいしょと起き上がらせた花形は、テーブルに置いていたメガネをかけると、起き抜けの掠れた声で、のんびりと尋ねてくる。
「え〜と、なぁに?」
「寝すぎ寝すぎ」
 その言葉で壁かけ時計を、まだ覚醒しきれていない頭でぼんやりと見やり、ちょっとだけと言って横になったにも関わらず、二時間は悠に寝てしまっていたことに、花形はようやく気が付いた。

 たまには休みも必要だろうとの部員への気遣いと、新入生が入ってくる前にもう一度練習メニューを見直したい事もあって、藤真は、春休みも中盤に差し掛かったこの時期、二日間の休日をとった。
 今までの練習での成果を纏めたデータの整理や、それらを踏まえての新しい練習メニューの組み立てとを、いつものように二人で手分けをしながら片付けていたのだが、休みともなれば気が緩むのだろうか、交代で休憩をとっていても、時々、思い出したように襲ってくる睡魔に、珍しく花形の方が先に根を上げ、少しだけのつもりで横になったところ、そのまま寝入ってしまったのだった。

「すまん、ちょっとのつもりだったんだけどな…。ずっとおきてたのか、藤真は」
「誰かに先に寝られちゃ、寝られませんよ」
「ごめん、悪かったって。で、少しは進んだ? 藤真のことだから、進んでるだろうけど」
「まね。ついでに試してみたいフォーメーションも考えてみたんだ。こんな感じのヤツで…」
 頬杖をついて欠伸を挟みつつ、手元のノートに書き留めたものを指し示しながら話す藤真をそれとなく見ると、その目許にはうっすらと涙がたまっている。
 花形は藤真の手を止め、
「少し、休憩すれば。ずっと書きっぱなしなんだろ。まだ時間はあるから、少しくらいなら大丈夫だよ」
 上目使いに花形を軽く睨むが、一緒に休憩するからと言う言葉に思わず吹き出してしまい、そのおかげで、気が抜けてしまったのだろう、藤真はやっとシャープペンシルを置き、休憩に入ることにした。
「花形、お前ねぇ、寝る子は育つって、ほんとだな」


 藤真は、う〜んと伸びをした後、そのまま花形のベッドに横になった。自分が使っているものより幾分大きめのベッドを、藤真は気に入っていた。
 ぼんやりと天井を眺めながら、
「いま、何時だっけ?」
「ん〜と、二時を少し過ぎただけだ」
「そっか…、まだそんな時間なんだ…」
 ぽっかりと空いた空間の中で浮いているような眩暈を感じ、軽く目を閉じる。

 何かに夢中になっている瞬間は、時間の事など気にした事はなかった。ただ、去年のあの時、状況が一変してしまったあの時から、絶えず、何かに追われるような足早に過ぎていく流れの中に入り込んでしまったからだろうか、ゆっくりと進む時計の針が、時間が止まってしまったかのような不思議な感覚を与えてくれる。

「夢…」
「なに?」
「うん…、なんだか、夢ん中にいるみたいな気がして。そんな風に思わないか? あんなに貯まってたファイルも結構整理できて、休憩取る時間だってあるだろ。こんなにゆっくりしていられるのって、随分なかったよな。だから…、花形?」
 占領されているベッドの端に腰をかけた花形は、藤真のふわふわとした話を聞いてはいず、窓の外に気を取られているようだった。
「藤真、花見でもしようか?」
「はぁ?」
「ほら」
 藤真は身体を起こし、花形が見ている窓の外に目をやった。そこには、まだ、三部咲きと言ったところの桜が見えていた。
「花見って、あれで」
「そうそう。二階の窓からじゃ、風情も何もありゃしないけどな」
「来週あたりが満開かな、あれくらいなら」
 二階にある花形の部屋から、隣の家の庭に植えられている桜の樹が見える事は知っていたけれど、こうして、じっくりと眺めるのは初めてだった。目を凝らして、ぽつぽつと開き始めている桜の花や膨らんでいる蕾を見ていると、そう言えば、ここのところ、そんなに寒さを感じなくなってきていたことを思い出した。

 目の前の事ばかりに気を取られて、自分の周りで起きている小さな変化に気がつかないでいる。確かに、気負っているところは、今でもあると思う。反対する大人達の前で大見得を切ったのだ。確たる自信があった訳じゃなかったけれど、少ない選択肢の中から選んだのは自分自身であり、そう決めたからには撤回する気などさらさらなかった。
 あの時から、とにかく前に進む事だけしか頭になく、それ以外には何も考えられなかったから。

「オレ、今、どんな顔してる?」
「そうだな、ずいぶん疲れてるみたいかな」
「そうかな。元気なつもりだけどな」
「他に何か言ってほしい?」
「他って?」
 窓の外に向けかけていた視線を花形に戻し、何が言いたいのかを知りたくてメガネの奥をじっと見つめるが、そこにはいつもの穏やかな瞳があるだけだった。

 あの時も。事後報告のような形で知らせた時も、分かったと言うように頷いただけで、花形は何も言わなかった。一人で決めた事に対して責めることをせず、一番大事なところで寡黙になってくれた花形に、きっと自分は甘えたのだ。それからも、ずっと。

 ふと、メガネの奥から笑みが零れているのに気が付いた。
「あのな、藤真のやりたいようにやれば良いんだから。他の事は何も気にしなくて良い。お前が見えてないところは、オレが見てるから。走りすぎてたら、止めてやるから安心しろ」
 藤真の事は潰させやしないからと、以前にも言ってくれた言葉を花形は本当にさらりと言ってくる。それだけで安心できるなんて、おかしいだろうか。ふたりの悪い部分かもしれないけれど、欲しい言葉を欲しい時にくれるこの関係が、今の自分には何よりも大事なんだと思う。

「ありがとう…」
 それ以上は何も言わず、藤真はまた窓の外に目をやり、これから満開になっていくだろう桜を見ることにした。。
 二日間の休みを終え、練習漬けだった春休みが終われば、ようやく新学期だ。最終学年になる藤真と花形たちの最後の年が始まる。
 その頃には、桜の花は散ってしまっているだろうか。花形と初めて会った時は、どうだったろうか。入学式の前に一度、体育館の裏で…。

 ぼんやりしていく意識の中で、二年前の記憶を引っ張り出すことに手間取っているうちに、藤真は窓に凭れたままいつのまにか寝ついてしまっていた。
 ふぅっとため息をついた花形は、凭れかかったまま寝ている藤真の身体をそっとベッドに寝かせてやり、風邪を引かないようにと毛布をかけてやった。