不器用な魚たち-3-



 この時期にしては珍しいほどの陽気の中、流れる汗を拭うイルカの姿が演習場にあった。
 アカデミーでの受け持ちのクラスの野外学習に当たっていて、教室の黒板の前で教えたトラップの掛け方を、子供たちの目の前で実演して見せては、同じ事を子供達にさせていた。
 ほぼ同じ年齢の子供たちであっても、その能力の差は歴然とあって、上手にこなせるもの、何回やっても上手くこなせないものに、どうしても分けられてしまう。
 ついつい、
「お前たちなぁ、ちゃんと先生の話聞いてたか? 何度言ったら判るんだよ〜、ったく」


 同じ人間などいない。すべてにおいて得て不得手があって当たり前。今出来なくても、根気よく教えて、また、努力もすれば出来るようになるはず。そう頭では判っているのに、らしくなく口やかましくなってしまう。
 自分の言うとおりに出来て欲しいのだ。後でなく、出来れば、今すぐ目の前で。こんな、余裕もなにもない心でしか見ていてやれないなんて。
 どうにも歯噛みする思いで見つめる事しか出来ない。多分に、昨夜のカカシとの事が原因なのだと思う。
 子供とは言え、忍を生業とするためアカデミーに入ってきた。どんなに努力をしても、この先、優劣はどうしても付いて回ってくるだろう。それは、もう容赦のないほどに。それでも、諦めることなく上を目指して欲しい。強くなっていって欲しい。強くなると言うその事が、子供たちの未来で必ず役に立つはずであると、そう信じる。いや、祈るような思いで信じている。
 自分に置き換えてみれば、そう言う事になる。カカシとの間にある歴然とした力の差があって。焦ってしまう気持ちをどうする事もできなくて、苛立ちが生まれる。
 強くなりたい。もっと、もっと優しさの裏返しのような強さが欲しい。
 だから願う。子供たちにも強くなって欲しいと。

「もう一度先生がお手本を見せるからな。次はちゃんと全員できるように」
 そう言い終えて、印を組み、トラップを仕掛ける。

 

 数刻の後、ようやく予定の時間が来た事を確認して、イルカは子供達をアカデミーの校舎まで帰す事にした。
「今日はここまで。明日はもう少し難しいのをやるから覚悟をしておくようにな。じゃあ、校舎まで走っていけよ。次の授業には遅れないようにな」
 慣れないトラップの授業が終わってほっとしているのか、みんな少し疲れた顔をしているが、元気に走って帰っていく。その後姿を見つめながら、イルカはほっと肩の力を抜いた。
 子供達は今はまだまだだけれど、いつか成長もし、色々な事を覚えて強くなっていくだろう。その時が楽しみだ。だから、今は焦るな。自分に何があっても、子供に当たるな。
 苦い笑みを浮かべ、採点表の束を持ち替えて、子供達を追ってアカデミーへと帰ろうとした時。
 カカシがこちらにむかって歩いてくるのが見えた。
 子供達を外で見ているという緊張感で、カカシの気配に気が付かなかったのか。いや、そうではないだろう。カカシが気配を消していたのだろう。

 時折吹く風に銀髪を揺らしながら近づいてくるカカシ。昨夜の今日で、どんな顔をして、何を話せばいいのだろう。気持ちの整理も何もついていなかったから、咄嗟には声を掛けられなかった。
「……」
 それでも、カカシは意に介することなどなく、
「今日は野外授業だったんですね。お疲れ様、イルカ先生」
「カカシさん…」
 側まで来た時、ついと俯いてしまったけれど、すぐに顔を上げてカカシを見つめる。
 いつもいつも、どんな時でも、その姿を見つけるだけで心騒がしくなる人。声を聞くだけで、未だに落ち着かなくなってくる愛しい人。憧れだけじゃない。色々な想いがそこにあるから、意識せずにはいられない。
「カカシさんは珍しいですね、こんなところで。ひょっとして任務ですか?」
 唯一見える右目が細められて、口布越しでも笑みを零しているのが判る。
「ええ、今夜発ちます。ま、すぐに帰ってきますけどね」
 歩き始めると、歩を同じにしてゆっくりとついてくる。
「今夜って…、また急に。休みじゃなかったんですか?」
 ふっと笑ったようで、空気が揺れた。カカシは両手をポケットに突っ込んだままで、
「五代目は人使いが荒いからねぇ」
「いや、それはきっと、カカシさんだからでしょう。だって…」
 だって、と、その先を何を言いたかったのだろうか。いつもの様に、貴方は強いからと言いたかったのか。けれど、今はその言葉を言ってはいけないような気がしてくる。カカシを包む雰囲気は穏やかなのに、何かを躊躇わせるものがあるような。そんな気がした。
 考えすぎかもしれないと思っていても、どうにもならない気持ちがあって。いつから、こんな風に変に遠慮してしまうようになってしまったのか。
 僅かに唇を噛む。

 その後は、演習場を抜けて、アカデミーの校舎が見えるところまで歩いて来るまでは、ふたりして何も語ろうとはしなかった。静かな時間を共にしただけだ。
 そんな時。
「ねえ、イルカ先生」
「はい…」
「俺と一緒にいて―――」
「え?」
「楽しい? 」
「何言って…」
 カカシは、突然何を言い出すのか。一緒にいて楽しいかどうかを聞くなんて。
 確かに、イルカにとってはここ最近、変に肩肘張っているようなところがあったかもしれない。いつになく声を荒げる事が多かった事もあるだろう。それにしても、である。どんな思いで男のカカシと付き合っているのか、判らない訳ではないだろうに。
「いらついて―――、カカシさんに当たる時もあります。でも、一緒に居て欲しいです。だって、好き、ですから…」
 最後の言葉は尻すぼみのように小さな声になってしまったけれど、正直な気持ちだった。ただただ好きで、それだけで一緒に居ることが楽しかった頃からは、今は遠くに来てしまっていても、好きな気持ちに変わりはない。
「うん、良かった。良かった…」
 そっと顔を傾げて、目を細めてほっとしているように喜ぶカカシに、イルカの心はちくりと痛む。何かの思いを打ち消したかったのか、カカシの笑みにほっとしたものが感じられたから。
「俺は―――、貴方の側にいても良いのか、悩んだ時もあったんです。好きだという気持ちだけで、本当に良かったのかどうか…」
「…うん、そうだね…」
 ふたりしてアカデミーの校舎を見つめながら、本心の肝心な部分には目を瞑り、遠巻きにしながら見つめているような、そんな風に話す。
「イルカ先生は真面目だから…、ね」
「いや、違いますよ。不器用、なだけです」

 真面目とは違う。そう、自分は不器用なのだ。
 カカシと並んで歩いていても遜色のないくらいに強くなりたいと思っていてもなりきれないでいる。そのことで苛ついてはカカシに当たって。そんな自分をそっと優しく受け止めるカカシの強さに、更に落ち込んで。
 これではいけない、これではいけないと思っているのに。

 そんな時、自分の考えに没頭してしまって黙ってしまった事で、
「そんなに思いつめないで、イルカ先生」
 思わずカカシを見つめてしまう。
「俺はね、今のままのイルカ先生が一番好きだよ」
「カカシさん…」
 何処をどんな風に考えようと、自分の至らなさばかりがめにつくけれど、これから任務だと言うカカシに、これ以上は心配をさせる訳にはいかない事は判る。ならば、今は心の重荷には余所へやって、カカシに笑みを見せなければ。
「心配ばかりかけてごめんなさい。今夜は、どうしますか? 晩御飯食べて―――」
「そうね、イルカ先生の手料理を食べて発ちますか」
「はい…」

 まだ陽の高い中、ふたりで歩きながら小さな約束をした。

 

 

 *   *   *

 

 

 カカシが発ってから三日が過ぎた。
 受付業務に当たっていない今日は、アカデミーでの仕事だけでよく、それさえも残業がないという、最近では珍しい夕方。ひとり分の食材を買うために商店街を歩いていた。
 どうせひとり分だと思うと、買っても質素なものになり、袋の中身を思い出しては溜息をついてしまう。カカシとふたりで食べるとなると色々な食材を財布と相談しながらであっても、考えて買うものを。カカシと一緒の時間が増え、それまでのひとりきりの時間が、どんなに長かったとしても、遠い記憶のような気がしてくるから不思議だ。
 人とは、所詮、ひとりでは生きていけないもものなのかもしれない。肌の温もりを知ってしまったら、特にそうなのかもしれない。

 ぽつぽつと今は里にいない想い人の事を考えながら歩いていると、突然、腕を引っ張られる。
「何…、何ですか?」
 振り向いて問うと、そこにいたのはくの一だった。
「あんた、カカシの付き合ってる人?」
 見知らぬくの一に想い人の名を言われ、咄嗟には返事が出来なかった。
「あ―――」
 くの一はイルカの腕をまだ捕まえたまま、何も言わないイルカに構わず尚も聞いてくる。
「あんたがイルカ先生?」
「はい…うみのイルカですが…、あなたは…」
 思考を総動員して、何故にカカシの名を出してまで自分の名を聞かれなければいけないのかを考える。が、見当もつかない。
 その時。
「あ、私ね、カカシの女」


 目の前がぐらりと歪んだような気がした。