不器用な魚たち-4-



「カカシったら、ねぇ、ほんとに薄情だと思わない?」
「そんな事…、ないと思いますよ」
「そうおう?」
「ええ、とても優しい方です」
「そうだったかなぁ…」
「はい、ご飯の支度とか手伝ってくれますから」
「ふふ、イルカ先生って、面白いわね」
 そして、コップ酒をぐいっと飲み干す。酒が強いと見えて、その飲みっぷりにイルカは見ているしかなかった。



 買い物の途中で腕をとられ、カカシの女だと言ったくの一は、驚いて口のきけないままのイルカを気にすることなく、何処かでちょっと話せないかと言いだし、返事に窮しているとそのまま腕を引っ張って、直ぐ側にあった店に入ったのだ。そこはイルカには馴染みの店で、カカシともよく来た事があった。女連れのイルカを見た店主が、一瞬言葉に詰まったような顔をした事がイルカには心苦しかったが、女はそんな事には気が付かず、奥へとどんどん歩いていき、丁度一番奥の席が空いていたのをこれ幸いにと席に着いた。
 その後は、まだ面食らったままのイルカをほおっておいて、酒を自ら注文し、手酌でコップに入れてはぐいっと飲みほしていく様は女とは言え豪快に見える。

 くの一は名前をカズメと言い、察したとおり上忍であった。男を下から見上げるような、言ってしまえば可愛らしさと言うものがあまり感じられず、どこか対等と言う言葉が当て嵌まるような雰囲気を持っていたからだ。
 カカシの女と名乗ったのは、以前に関係を持っていた時期があって。カカシから一方的に離れ、自分としては別れたとは思っていないから、今でもカカシの女だと思っているのだと言った。
 けれど、そうは言っても、カカシの興味を引き続けられなかった事が心に引っかかっているのか、元気な口ぶりとは裏腹に哀しさが滲み出ている気がした。目が時々、薄く曇るから。多分、本人は気が付いていないと思われる。
 カカシの浮名は、以前なら花街にでも行けばよく聞かれたものが、ここ最近は聞かれなくなったのが不思議でならない。これは誰か良い人ができたのかもしれない。ならば、その人を一目見てみたい。どんな女なのか。自分よりも綺麗なのか、そうでないのかを知りたい。
 付き合っていた頃は、妙にあっさりとしていた関係だったが、離れてみて初めて惜しいと思えた人だったから、居ても立ってもいられなかったのだと。
 ただ、噂を追いかけ、何とか辿りついた先が、今カカシと関係があるのが男で、しかも中忍でアカデミーで教師をする傍ら、受付所での仕事もしている人だった事に、会ってみるまでは信じ難いものがあったらしい。

「あんたがねぇ。まさかとは思ったけど、今ならそんな気もするわね…。あいつ、女なんて腐るほどいたのに、誰とも長続きしなかったもの。かく言う私もその一人だけどね」

 溜息をつくようにそう言った時の声音に、幾許かの寂しさが覗いている。きっと、まだ未練があるのだろう。カカシの事が本当に好きなのだろう。それは、男である自分にも良く理解できた。
 けれど、カカシと言う人は、その気になって追いかければ追いかけるほど離れていくような人なのだ。捕まえたいと思った時にはもう遅く、気が付けば遠くを歩いている。柔らかな布が、握り締めていると思っていた手から、するりと抜け落ちていくように。

 カズメの話を聞くにつれて、ようやく一息つけたイルカだった。自分の知らないところで、隠れるようにして関係を持っていた訳ではなかった事に安堵する。
 カカシと話をするようになって一年。関係を持つようになって数ヶ月。長いのかそうでないのか判らないような時間のなかで、カカシと自分の絆が、そう呼んでも良いのかどうかもやはり判り難い絆というものが、目の前のくの一よりも少しはあるように思えてほっとした。
 女に勝ってほっとしている自分なんて、カカシが聞けば何と言うだろう。
 そもそも、比べてしまっている時点で、カカシの事を信じていないようであり、その事をカカシが気づけば、あんなにも自分の事を気遣ってくれているのに、哀しい想いをさせてしまうかもしれないのに。
 言い訳のように聞こえるかもしれないけれど、カカシをやはり信じている。こんなにも想っている。同性と言う枠を超えて、人として想っているから。
 本当にカカシが好き。

――― ああ…

 何だか、ここのところの自分の悩みが、実のところは何でもなくて、そんなに気にして考えなければいけないものとは違うような気がしてくる。だって、自分はカカシが側にいてくれて幸せを感じているのだから。

 

「ねぇ、先生」
「はい?」
 幾分頬を赤らめながら、けれど、瞳はしっかりしている。その何か言いたげな瞳を、静かに見つめる。
「カカシを私に返してくれない?」
「嫌です」
「これは上忍命令よ」
「判っています。けれど、たとえ上忍命令でも、そんな理不尽な命令には従えません」
 きっぱりと言い切る。どんな思惑があるのかは判らないが、カカシと別れる事等、考えられるはずがない。
「でも、あなた迷ってるわ」
 流石は上忍と言うべきか、心の内にある悩みを見透かされたのかもしれない。思わず瞠目してしまう。が、それも一瞬の事。ここで怯んでは向こうの勝ちになる。言い負かされる事は、あんなにも自分を想っていてくれるカカシへの不実を証明してしまうようなものだ。そんな事はできないし、したくもない。
「ええ、そうかもしれません。悩みは確かにありますから。けれど、それは貴方には関係ない。これは、俺とカカシさんの問題です。他人に口を挟まれる筋合いのものではないんです」
 静かなイルカの言葉に、カズメがふっと笑う。
「なかなか言うわね」
 片手で頬杖を付いて、コップに酒を注ぐ。満たされていく酒をじっと見つめている。何を思っているのか。もっと、理不尽とも思えるような命令を考えているのか。

 イルカは目を閉じた。
 階級は、何をもおいても守らなければいけないもの。それなのに、上忍命令と言う、例えそれが私的なことであったとしても従わなければいけないものを、自分はきっぱりと断った。この先に何が待っているのか判らない。けれど、カカシを間に挟んだのなら、答えは決まっている。極端なことを言えば、刺し違える事があったとしても、自分はカカシとの関係を守らなければいけないと言う事だ。
 強くなりたいと、カカシと対等でいる為にもっと強くなりたいと、いつからか、その考えに捉われてきた。今思えば、どう言う事が強くなりたい事の証になるのか判らないままに、その考えに溺れてしまっていたのかもしれない。
 カカシとの関係を大切なものとして、これからも育んでいきたい。嘘偽りのない気持ちだ。
 それには、カズメに対してきっぱりと言い切れた気持ちを、もっともっと大事にしていければ良い事なのではないだろうか。それが、強さになるのではないだろうか。
 イルカは、今までのもやもやとした曇り空に覆われていた心が、晴れやかな青空になっていくような気がして、何とも満ち足りた気持ちがしてきた。

 目を開けて、深呼吸をひとつする。そして、カズメをしっかりと見据え、
「カズメさん、俺はカカシさんの事が好きです。大切にしたいと思っています」
 カズメは、イルカの言葉を静かに聞いていた。僅かに唇を噛み締めて。きっと耐えなければいけないものが、その胸の内にあるのだろう。
「ふん、言ってくれるじゃない」
 目を何度か瞬かせ、両手で頬杖をついて窓の外を見つめている。
 夕焼け色に染まっていた街並みにも、今は夕闇が降りてきている。薄暗がりの中で行き交う人達を見つめ、カズメは何を思っているのだろうか。
 イルカは、彼女から声を掛けられるのを辛抱強く待っていた。
 ややあって。
「出ましょうか…」
「はい」
 イルカが手を伸ばしかけた勘定書きをカズメはさっと取り、
「ここの勘定は私が済ませるわ」
「そんなっ、俺が払います」
「良いのよ先生。私が誘ったんだから。さ、出ましょ」
 そう言うなり、来た時と同じようにさっさと席を立ち、歩き出す。イルカは、仕方なく彼女の後をついて歩き出し、先に店をでて待つことになる。
 暖簾をくぐって出てきたカズメに、イルカは何と言って良いものか判らないでいた。そんなイルカの心中を察したのか、
「先生、カカシに飽きたら私に言ってね。お願いよ」
「ないと思いますが、判りました」
 鼻を横切る傷をぽりぽりと掻きながら言うと、カズメは、口元に笑みを作った。それはとても切ないものに見えて、イルカには、やはりそれ以上の言葉を発する事が出来ないでいた。
「それじゃ」
 一言言って、イルカの見守る中、人ごみの中に消えていった。
 イルカは、暫くは店の前から動けないでいた。

 会った時に警戒していたような悪い女ではなかった。それ以上に、気さくで良い印象さえ受けた。同じ人を好きになって、ひとりは側にはいられなくて、ひとりだけが側にいる事を許される。それは、とても切ない事に他ならない。
 カズメの分まで何て奇麗事は言わない。自分は、自分として精一杯の気持ちでカカシを想い慕う。そうしていこうと、また切に願う。
 カカシが帰ってきたら、何かの酒のついでにでも、心境の変化を話してみよう。
 その時、彼は何と思うだろうか。何故?と問うてくるだろうか。カズメとのやり取りの中で目を覚ましたと言ったら、変に思われてしまうだろうか。カカシにすれば、過去に沢山いた女の一人に過ぎないのだから、覚えていないかもしれない。ならば―――。

――― ああ、自分はどうして、こんなに小さな事でうじうじと悩んでしまうのだろう…。どうでも良い事なのに…。

 浮かんだ些細な拘りを捨て去る為に頭を小さく振り、家に得る為に振り返った。
 と、その時、直ぐ後ろに誰かいたようで、ぶつかってしまう。
「わっ」
 思わず鼻を押さえ、
「すいません、前を見ていなくて。怪我はあり―――、カカシさんっ」
 イルカの直ぐ後ろにいたのはカカシだった。
「カ、カカシさん、もう帰ってこられたんですか。後、二三日はかかるかと思っていました。お帰りなさい」
 久しぶりに会えて、笑顔で言う。カカシを見れば、まだ忍服は夜目に見ても汚れているのが判るほどで、帰ってきたばかりだと言う事を教えてくれる。このまま一緒に帰って、急いで風呂を沸かしてゆっくりしてほしい。食事らしい食事も多分していないだろうから、何か簡単なものでも作ってやって。
 イルカがそんな事を考えている間も、カカシは表情を変えずに、硬いままで黙ったままだ。
「カカシさん?」
 首を傾げて問うと、
「あの女、親しそうでしたね。俺のいない間に何してたんですか?」
「え、ああ、先程の人ですか? あの方は、って、カカシさんっ」

 突然、カカシがイルカを抱きしめたかと思うと、瞬身の術を使ってイルカの家まで移動したのである。